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「吾嬬の森連理の梓」−桜→吾嬬の森→梓→お空の鳥から空へ、、–『名所江戸百景』
今日は桜のパンケーキを食べにいきました。春を感じて幸せです。
桜も見れるうちに観にいきたいと思っています!アレグラ飲んで!
そんな春の始まりを飲み込んだ今日も広重。今回は『名所江戸百景』の「吾嬬の森連理の梓」です。
◼️ファーストインプレッション
この絵は視線の動きを巧妙に利用したものですね。
左手前から伸びる畦道が右に、そして左の方向に向かって真ん中へ、それが右に向かって道が伸びているにがわかります。それが空の鳥の群に目線を向けるようになっていて、近くから遠くに視線を送るように仕向けられています。
手前の道には桜が咲いていて、まるで今の時期のよう。奥に続く建物までの名所になっていたのでしょう。
手前の川で船に乗っている人々はここまで送ってもらったのでしょうか。船に揺られながら桜の満開なのを眺めている幸せが伝わってくるような、全く違うような笑。
◼️吾嬬権現社
吾嬬神社は、墨田区立花にある神社です。吾嬬神社は、日本武尊東征の際に相模から上総へ渡ろうとして暴風に遭い、弟橘媛が身を海に投じて暴風を鎮めたことから、日本武尊は当時浮き洲であった当地に上陸できたものの、弟橘媛は行方知れずとなり、弟橘媛の御召物がこの地の磯辺に漂い着いたので、これを築山に納めて吾嬬大権現として崇めたのが始まりだと伝えられます。後、弟橘媛を慕って正治2年(1200)宇穂積臣の末葉、鈴木・遠山・井出の三家が吾妻権現として社殿を造営したといいます。当地名立花は、この弟橘(立花)媛の言い伝えにより命名されたといいます。
日本武尊東征の時に暴風に遭ってしまい、弟の橘媛が海に身を投じて鎮ま里ました。橘媛は行方しれずとなってしまったものの、浮洲であった当地に彼の御召し物が漂着したそう。日本武尊は当地に上陸し、弟の召し物を納めるために吾嬬大権現を崇めたことから権現の始まりでありました。
そんなに大昔の伝説からの由緒なのですね。弟の霊を鎮めるために廟を造り、梓の木を箸にして廟の東に挿したところ、その箸が絵のような大きな一根二幹の梓の木に成長したと言います。
そんな伝説のある梓の木が絵にも描かれていますが、この木は神木で「連理」や「相生」と呼ばれたそう。だから題名にもある通り「連理の梓」というのが納得できますね。
赤ピンで示したところが吾嬬神社です。なので、絵に描かれている川は北十間川ということですね。
こちらが現在の実際の神木です。穴が空いていますね。明治43年の洪水や関東大震災、東京大空襲で吾嬬の森は失われてしまい、木だけが残っています。しかしその木も枯れてしまっているため根と幹だけが残った状態で保存されています。
こんなに多くの被害に遭っても、しっかりと根幹だけは残っているなんてまさに御神木であるが故といったところでしょう。
この前亀戸行った時についでに寄っておけばよかったななんて思いましたが、蔵前橋通りから結構な距離があるので歩いてはきつそうですね。笑
一度は御神木を拝んでみたいものです。
今回は絵の印象、吾嬬神社の由緒や伝説、梓について、みていきました。
今日はここまで!
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