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『下目黒』−行人坂は描かない、性格出てる?−『富嶽三十六景』

最近は浮世絵や江戸絵画に関する本を買う頻度が減りました。それは熱が冷めてきたとかそういう理由ではなくて単純に本屋に行かなくなったから笑。本屋に行くと必ず買うので買おうと思わない限り行かないことにしました笑。それは本への好奇心を減らすことになってしまいがちですが、一回に滞在する時間が長いのでプラマイゼロ感があるのでよしです。笑

今は西洋の絵画を勉強しないといけないのでYouTubeで解説してくれている動画を漁ることで日本画の本への熱が収まっているでかなのかも!

とにかく今は前期見た後期の展示を見に行きたい!

さ、今日の葛飾北斎『富嶽三十六景』「下目黒」

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今はおしゃれな店店が並ぶ目黒付近ですが、江戸時代は棚田のような田んぼのある土地だったのでしょうか。その目黒とは違う場所かな?葦を被った屋根のある家は農作物を保存する場所であるのでしょうか。民家かな?画面左下には手を振り合っている男性がいます。どんな職業で何をしてきた人なのでしょうか。農家という感じはしませんね。この棚田的たんぼの下奥にあるのが富士山。目線よりも下に感じますが、どうなのでしょうか。流石にそんな場所は存在しないと思いますので体感の問題でこう描かれているのでしょうね。


下目黒とは現在の東京都目黒区下目黒にあたります。当時の江戸の南西部の郊外に位置する目黒周辺は起伏に富んだ丘陵地帯で、幕府の御鷹場が存在したようです。

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このエリアですね!御鷹場というのが↓

特定の権力者が、鷹狩を目的として設定した場所。古代には禁野(きんや)、標野(しめの)、戦国時代には鷹野(たかの)、豊臣・徳川政権下では鷹場という。江戸時代に鷹場をもちえたのは将軍と大名だけであり、天皇や公家は鷹狩を行使しても鷹場をもたなかった。近世の鷹場には、大別して公儀鷹場と藩鷹場とがあり、公儀鷹場には幕府鷹場や幕府が御三家をはじめとする大名に下賜した恩賜鷹場(おんしたかば)、幕府が御三卿に下賜した御借場(おかしば)などの種類がある。江戸幕府の鷹場は当初、関東のほか、畿内や東海道周辺にも存在したが、享保期(1716~1736)にはほぼ関東だけとなって、御拳場(おこぶしば)・御捉飼場(おとりかいば)に編成され、その間に幕府から下賜された御三家の鷹場が配置された。

こういった凹凸の激しい地帯は鷹狩りに向いていたのでしょうね。

絵の中にははっきり描かれていませんが、目黒の鷹狩のとして碑文谷村があるそうです。それが正面に見える富士山の方面です。さきほど述べた手を振り合っている男性たちは手に鷹を乗せた鷹匠であるようです。


下目黒はそもそも富士山の名所としては有名な場所ではなかったようです。しかしその東に行くと行人坂という坂がありそこは富士山を眺める絶景スポットであったらしいです。上の地図のちょうどJR目黒駅の左に位置しています。そこに富士山を眺めよと言わんばかりの茶店、富士見茶亭がありました。これについて斎藤月岑『江戸名所図会』で「富士見茶亭」という作品で描かれております。

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これだ!確かに坂の上だからよく見える!人もかなり集まっていますね。

また、この茶屋について歌川広重『東都名所坂つくしの内 目黒行人阪之図』で描かれています。

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これだ!『江戸名所図会』と構図が全く同じ!相当有名だったわけだ。

他にも歌川国貞・歌川広重『江戸自慢三十六景 目黒行人坂富士』という作品にも残っています。

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これですね。縦画面とはいえ、同じ構図であることがはっきりわかります。下の様子もわかりますね。

北斎はこんなにも多く描かれる行人坂をあえて描かず、名所としては名の知れない下目黒の農地を選びました。なんとなく勘づいてはいますが、北斎は定番を好みませんね。あえて鷹匠や農夫たちの日常と交えて、しかも小さく富士を描くことに趣を感じたのでしょう。

今日はここまで!

#葛飾北斎 #北斎 #富嶽三十六景 #下目黒 #行人坂

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