「四つ木通用水引ふね」−大河に心持ってかれている、舟ではなく…−『名所江戸百景』
さあ、大河ドラマの時間です。
義経と頼朝の行き先がハラハラしてなりません。
ていうか、善児出て来ちゃいました。また誰かが残忍に殺されます。。。
ていうか、義経の人相が変わって来ますね。。。
さあ、今日も広重。残り10作品になりました!
今回は『名所江戸百景』の「四つ木通用水引ふね」です。
◼️ファーストインプレッション
細く、均等な幅で一律の色味を持つ川が奥の山の連なりに続いています。
やはりどうしてもこの青一色の線は目を引くものがありますね。
この川は奥から手前に水が流れているようですね。手前から3番目の船を引っ張る人がこちら側に踏ん張っています。
と思ったけれど、手前の2隻は奥に引っ張る人々がいます。二人の踏ん張り具合から、流れは、、、なんともいえない。
それより、もっと奥の角の部分に船がいくつか集まり、藁屋根の家屋が数軒あります。そこが船乗り場のような役割の場所だったのでしょうか。
至ってシンプルで、大胆な構図で描かれるこの川はこう描かれて生きるものですね。
◼️四つ木通用水
今はこのような川の形は残っておらず、道として残っています。
「お花茶屋」という駅がありますが、その南に伸びる道に「曳舟川親水公園通り」と書かれているところ。
こちらがこの川の跡地。
確かにこの直線感はそのまんまかもしれません。
今では川というより、公園の一部の水流。
子供が夏に膝くらいまで足を浸すのにちょうどいい場所ですね。
飲み水を運んでいたということで、以前見た玉川上水のような役割だということですね。
しかし1722年に廃止され、その名残は農業用に使われました。船の先に網をつけて舟を曳く、曳舟が行われたそう。
これが現在の由来ですね。
この使い方は1882年、この絵が描かれた25年後くらいまでは同様の使われ方をしたみたいです。
それではなぜ、広重は題名を「曳舟」としなかったのでしょうか。(引ふねとはしていますが!)
だって、絵には舟を曳いている様子がしっかり描かれているのに!
この四つ木の名前の由来には幅があって、いくつかの説がかるというので確定的なことは言えません。
しかも、先ほどの地図を見ていただければ分かる通り、この川は真っ直ぐなものであったはず。
こんなにグネグネと湾曲した川ではなさそうなのは今の地図を見てもよくわかりますね。
広重はこの景色を自分の目で見たものというより、こうあった方が見栄えがするだろうという魂胆で描いたのでしょう。
このように湾曲していれば、舟を曳く人々の荷重の加減や、今先の調整の難しさを想像できると考えたのでしょう。
曳舟という名前がついたのがいつからか、『江戸名所図会』を調べても該当部分がなかったので定められません。
曳舟の様子を見てほしいけれども、それを題名にするとそれにしか目が行かなくなるから一般的な名前にすることで全容を見るように促したのでしょう。
なんとも、推測ばかりで駆け足になった今日でした。
大河ドラマ、胸が締め付けられて涙が涙腺に溜まっていました。
頼朝も泣くくらいなら、、と思いますが世を治める人としてはここまでしないと示しがつかないのでしょうか。
どっちの意地も尊重するのが現代に生きる私の歴史の見方なのでしょう。
今日はここまで!
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