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「蒲田の梅園」−久三郎さん、梅見る人を癒している−『名所江戸百景』

なんと今日はずっと続けている方のアルバイト先の香港人の方からお手紙をいただきました!
彼女がアルバイトを始めてから私がトレーニングで付くことが多くて、いろいろお話ししていたらとても話が合うことがわかり、美術の話をしたり彼女の生活の話をしたり。
最近会えていなかったので、バイト先に友達のいない私からしたらとても寂しかったのですが、今日会えて嬉しかったのです。
いただいたお手紙はとても丁寧な日本語で、とても読みやすく、綺麗な字で書かれていました。
正直私の方が汚い字で、ガサツな日本語を使っているなと感じてしまうほど。。笑

気持ちが伝わってきて、お手紙ってやっぱりいいな、、。と感じました。

まさか、家から近い・融通効きやすい・一人で黙々とやってられるの条件で始めたバイトで素敵な出会いがあるとは思いませんでした、、。

ウキウキした気持ちになった今日も広重。今回は『名所江戸百景』の「蒲田の梅園」です。

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◼️ファーストインプレッション

広重は梅園と赤い空を重ねたがりですね。「亀戸梅屋敷」でも手前に大きく枝を描いたことに注視してしまいましたが、空の赤さが梅の満開である様子を間接手的に描写しているのですね。

とても広く梅が植えられていて、ここもまたここ品川界隈の春の名所だったのですね。茶屋のような建物が3軒見えます。そこで休息している人や周りに立っている人もいます。

所々に灰色の石碑みたいなものが立っていますね。何か梅の木に関する秘話でも書かれていたのでしょうか。

右手前に籠のようなものに緑の紐と竹、青い風呂敷のかかったものが運ばれています。この時期だからこそ移動式で何か売っている人でもいたのかなあ?


◼️蒲田梅屋敷

亀戸の梅屋敷ではなく蒲田の方の梅屋敷を見てみましょう。

梅屋敷公園の歴史は江戸時代に和中散(道中の常備薬)の売薬所の敷地3000坪に梅の木数百本と花木を植え、東海道の休み茶屋を作ったことに始まります。当時は梅の名所として多くの人で賑わい、また明治時代になってからは、明治天皇がたいそうに気に入られ、9度も通ったと記録されています。

江戸時代からの歴史なのですね。東海道に配した休み茶屋があることで人々が集まりやすかったのですね。ここは明治天皇もお気に召したところで、9回も通ったという。とても綺麗で見ものな景色だったのでしょう。

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現在の梅屋敷の場所。正式には「聖蹟蒲田梅屋敷公園」という名前。京急蒲田の近くにあるのですね。

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今でも約100本の梅が植えられているそう。今でも続いているなんて素敵ですね。

◼️和中散

いきなり和中散という単語を出しましたが、この梅園を創始したのが薬屋の山本久三郎という人。


文政ぶんせい年間(1818年から1830年)の初めに、和中散わちゅうさんという道中常備薬を商う山本久三郎が、梅の名木を集め、東海道を往来する旅人を相手に茶店を開きました。

先ほど江戸時代に出来たと言いましたが、割と描いた時からの歴史は浅い印象。

和中散という薬を売っていた山本久三郎という人が始めたのが蒲田の梅屋敷。


江戸時代、時候あたりや風邪などにきくとして諸国に流布した薬。枇杷葉(びわよう)・桂枝・辰砂・木香・甘草などを調合したもの。本家は近江国栗太郡梅木村(滋賀県栗東市六地蔵)で、江戸では大森に三軒、店を並べて売っていたと伝える。

江戸時代の万能薬。今でいうバファリンみたいなものなのかもしれないですね。

で、この江戸版バファリンを売っていた山本久三郎という人物は、明治に入ってから帝国劇場の支配人に就任した人物でもあるそう。

渋沢栄一や西園寺公望といった明治維新に先陣切った人たちとも関係があったそう。


そんな山本久三郎が創始した梅屋敷が今でも人々に知られる場所であるというのは、江戸と東京を引き継いでいるようで素敵です、、!


今日はここまで!

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