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「みつまたわかれの渕」–当時も亡き中洲は草で盛えて、、−『名所江戸百景』

今日はお部屋を綺麗にした後、勉強をしました。

お部屋が綺麗だとごちゃごちゃしている時よりやる気が湧いてくるモノですね。

そんな部屋が一番綺麗な今日も広重。今回は『名所江戸百景』「みつまたわかれの渕」です。

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◼️ファーストインプレッション

まるで北斎『富嶽三十六景』のような絵ですね。奥に見える富士山は手前にある帆を張る船と同じような形を成して合同であるかのよう。遠近にわたって三角形を置くことで統一感のある絵になっています。

奥の赤い空と手前の青い水面のコントラストが、よりこの絵の構成力を引き立たせています。

この川の上にいくつか船が浮かんでいますが、手前の3隻は何かをまとめて積んでいる様子。俵や箱を集積しています。

昨日のようにこの川を使って江戸の中心に物を運んでいたのでしょうか。

右岸に赤い門の建物がありますが、横に長い建物なのでどこかの武者屋敷な気がします。

◼️わかれの渕

現在その渕は残っていませんが、跡地としてなら残っているそうです。

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こちら赤ピンが「みつまたわかれの渕」です。しかし(名所江戸百景)と記されてるため、『名所江戸百景』にのみ使われた名称なのでしょう。

絵に描かれる広い川が隅田川なのでこの渕がある方向に三俣のもう一つの川があったのでしょう。わかれの渕という名前は淡水と海水の分かれ道であったことからついたそう。


◼️武家屋敷

この川の右岸に描かれる赤門の武家屋敷について検証したサイトを引用させていただきます。

当時の地図からその場所を紐解いています。

それを参考にして私も「大江戸今昔めぐり」というアプリで見ていきます。

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ちょうど記号で色々隠れてしまっていますが、上のグーグルの地図と重ねています。

地図右真ん中に万年橋という橋がありますが、そのもうちょっと北にある薄紫の場所「御籾蔵」と記されているところが上の地図の「みつまたわかれの渕」と重なります。

この絵の中心に描かれている緑色の地帯である中洲はグーグルマップの示す地図にはありませんが、この今昔めぐりには記されています。

なのでこの中洲の隣にある武家屋敷が絵の赤門の屋敷でしょう。そうすると白文字の「清洲橋IC」と記されたところの屋敷が、それかもしれませんね。

「寺社奉行 陸奥磐城平藩(福島) 安藤長門守 正信」と記されていますね。

陸奥安藤は、北奥羽の豪族でした。陸奥国の俘囚長安藤貞任の子孫であるらしい。

鎌倉期に北条氏の被官となり,陸奥国北部の代官を務めるとともに,〈蝦夷管領(えぞかんれい)〉の代官として蝦夷を支配した。鎌倉後期の蝦夷の蜂起に関連して一族の内紛が発生。鎌倉幕府の追討を受けたが,屈伏することなく和談が成立(安東氏の乱)。南北朝期以後,出羽国の秋田方面にも勢力が及び,秋田湊(現秋田市)を本拠として湊安東(みなとあんどう)を名乗る一族も現れた。室町期に蝦夷を統轄する〈日之本(ひのもと)将軍〉の称号を得た。安東氏の本流は津軽半島西側,現在の青森県市浦(しうら)村(現・五所川原市)にあたる陸奥国十三湊(とさみなと)を本拠として栄えたが,1432年南部氏に追われて蝦夷地へ逃れた。のち現在の秋田県能代(のしろ)市にあたる出羽檜山(ひやま)に戻り,檜山安東氏を称した。戦国大名の秋田氏はその後身。

今季の大河ドラマを見ているので中世の豪族たちの変遷を見ていくこともこれから始めていこういと思っています。

この引用では、蝦夷の支配を担当したということが主に書かれています。蝦夷討伐に関して内紛が発生したり鎌倉幕府の追討に遭ったりしましたが、南北朝期以降も生き延びて勢力を伸ばしました。

秋田市を本拠としていたものの、室町時代には青森の津軽辺りまで勢力を伸ばしました。しかし15世紀に南部氏という豪族に追われて蝦夷に戻っていきました。

◼️日本橋中洲

先ほど記した隅田川の中洲は、現在は埋め立てられているので隅田川岸の一角になって人々が生活しています。しかしこの中洲は当時、繁栄した土地であったそう。

◎江戸時代中期の明和九年(一七七二年)に隅田川の分流点の洲であった中洲は築立されて、〈三股富永町〉としてその後繁栄することとなる。
道楽山人の『中洲雀』に、「わけて月の名所は、外に中洲の涼所と、近来の大賑いも更なり。川岸には水茶屋行儀能軒をつらね、料埋茶屋跡先を押へて、船路陸路の客を留む。」
今から二百十年以前のことであった。しかし、寛政の改革の倹約令、緊縮政策の下、文化遊興地であった中洲は取り壊され、元の″洲″に戻されてしまう。

この中洲のエリアを当時はただの湿地帯としてではなく、埋め立てることで「三股富永町」とし、繁栄することとなりました。

『中洲雀』という先行資料には”月の名所””大賑わいな場所””岸に茶屋が連立””料理屋も”あるということで、隅田川を渡航する船の乗客をいざなっていたというほど。

しかし倹約の長が寛政期の政治を収めると、この興行地帯は中洲自体がまた”ただの”湿地帯”に戻ってしまったそうです。

このことは『武江年表』という、あの『江戸名所図会』を記した斎藤月岑が書いた編年体の古文書に記されているそうです。


今回はわかれの渕や絵に描かれる武家屋敷とその歴史、また、描かれる中洲の過去の姿について見ていきました!今日は歴史に触れた日だったかな!

今日はここまで!

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