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「上野山した」−紫蘇飯で固唾をのむ遊女の美しさ–『名所江戸百景』
バレンタイン、何も作ってません。
渡すはずのものが試作の時にうまくいかずやる気をなくし、数日後に渡すことを約束してそのままなのです、、。
ただ見た目が可愛いという理由で作ろうとしたものが、これは本当に美味しいのか?という疑問が浮かんできて邪魔をしています。
多分数日後に作ります。。
多分、、。
そんな世間から遅れた日も広重。
今回は『名所江戸百景』の「上野山した」です。
![](https://assets.st-note.com/img/1644842756480-q1laD6nf8s.jpg)
◾️ファーストインプレッション
なかなか調べ甲斐がありそうな、ネタがたくさんありそうな絵ですね。
ここではあまりこれまでに見られなかったすやり霞が少し活用されていて近景が全面に来る印象です。
画面右の店の中はとても賑わっていますね。
一階では魚を吊るして何かを売っています。暖簾に「いせや」や「めし」と書いてあります。
画面左の近景では傘を差した女性たちの行列が描かれています。多分偶然ではなくこのような行事があったのでしょう・
それを眺めている店先の人々、店の2階席の人々。
◼️描かれている場所
ここは寛永寺黒門付近を描いているといいます。
![](https://assets.st-note.com/img/1644843870902-4ClHSJjrGp.png?width=1200)
真ん中の赤ピンに黒門跡があります。
実際に絵には黒門は描かれていなくて、店の左にある灰色の鳥居が「五條天神社鳥居」というところが目印になります。
![](https://assets.st-note.com/img/1644844065521-QzQIXV6t4K.png?width=1200)
場所の乖離が大きいですが、この赤ピンの場所が五條天神社ですが、鳥居もそこにあると考えると一番近くの動物園通りと書かれたところの少し南からこの絵が描かれているということになります。
◼️五條天神社
第十二代景行天皇の御代、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東夷征伐の為、上野忍が岡をお通りになられた時、薬祖神(上記の二柱)の大神に御加護を頂いた事を感謝なされて、この地に両神をおまつりなされました(約1890年前)。
相殿におまつりしてあります菅原道真公は、寛永十八年(約三百五十年前)に合祀され、歌の道の祖神として俗称下谷天満宮とも云われました。
医薬祖神を祀り、病気平癒や健康祈願に参拝した人々がたくさんいたそうです。
日本武尊の時代というと1世紀にも満たない時代、西暦72年に生まれたそうです。
そんな正直生活も人の顔も想像もできないような時代から既にこの天神社の命は宿っていたのですね。
社殿の名前に「天神」とありますので菅原道真が祀られているのもよくわかります
。
![](https://assets.st-note.com/img/1644845664919-UXCAffxPhw.jpg?width=1200)
現在の鳥居の様子です。これは当時の場所と違うところに変遷されたそうです。
◼️店はなに屋さん?
やはりこの店の名前は「伊勢屋」。
現在にまである老舗店の可能性を信じましたが、ゼロでした。
伊勢屋という店名から雁鍋という店名に変わり、夏目漱石の『吾輩は猫である』に登場したそうです。屋根の棟飾りが雁のデザインになっていることが由来しているそう。
その明治時代の店の様子が残っているサイトを見つけました。
一応ここのサイトの利用規約を読んだのですがちょっとこういう権利系のお話は勉強不足なので勝手に載せていいのか判断できませんでした、、。
なのでぜひこちら↑のサイトに飛んでいただきたいです!
明治時代の上野の様子が写っています。
伊勢屋当時の様子よりも雁鍋当時の様子が二つの角度から写されています。
こう見ると、もうすでに五條天神社は現在の場所に移ってしまったことがわかります。
店前の道はとても広い道だったのですね。
この雁鍋、ではなく伊勢屋ですがこの絵で描かれている店の様子は紫蘇飯を売っているらしい!
初めは「紫蘇飯?」と、味の想像もできませんでしたが調べたらゆかりご飯みたいなものが出てきました。
それとも緑の紫蘇を刻んで混ぜたのか。
当時の食べ方はわかりませんが、今にも残るお米の食べ方ですね。
画像調べてたら食べたくなってきた、、。この時間にはよろしくない、、。
閉じる。
◼️傘を差した女性たちは何者?
この絵の目をひくポイント、画面左の傘を差した女性たちの列ですね。
これについて非常に根拠のがっしりした信頼できる記事を見つけましたので紹介させていただきます。
何度も拝見している喜千也さんの記事。
こちらではこの行列の正体についてまとめてあります。
【多くの論争を呼ぶ、謎の行列の正体とは?】
という項目で述べられています。
この行列を大奥の御殿女中の参詣の行列だとする説と、踊りの師匠と弟子たちとする説、花見に赴く吉原遊女の説などさまざまな説があるそうです。その中でこちらでは吉原遊女説をとっています。
この絵自体が広重初代ではなく、二代広重が描いたといわれていることに関係しています。
二代は『東都上野花見』という作品で似たような傘の絵柄の女性の列を描いていたそう。
![](https://assets.st-note.com/img/1644847658743-wayymHrh7B.jpg?width=1200)
この行列の女性たちは見習いの遊女や禿のものであり、周囲に付添人が複数人いることから吉原の遊女であるとされています。
確かに傘の柄がほぼ一致しているのももちろん、服装や髪型といった装いがその周囲の女性たちと全く異なることは一目瞭然です。
その左を歩く傘を差した女性3人組を見ても、装いがいくらおめかししたとはいっても普通の女性であることがわかるので遊女説も納得です!
こういう研究をできたらいいなあと思ってしまうのでした。
非常にためになる記事です。
勝手に一部を引用しましたが是非全文読んでいただきたいです!
今日はここまで!
ちょっとレイアウトを見やすくしてみたのですが変わったかな?笑
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