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「小梅堤」−旅路に寄り沿った曳舟川−『名所江戸百景』

今日もまたいきなり寒くなりましたね。寒暖差で普通に風邪ひきそう。

今時期風邪ひいたら面倒な手続きをしないと「ただの風邪」と認めて貰えないので気を引き締めないといけないですね。

でも気を引き締めて体調管理するのもそろそろ無理な気がします。一週間だけ緩ませたい、、。のが本音。笑

そんな寒さにやられている日も広重。今回は『名所江戸百景』「小梅堤」です。

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◼️ファーストインプレッション

これもまた空が赤いですね。「亀戸梅屋敷」でも赤い空が描かれており、梅絡みで、小梅堤という題名にとても似合っています。

右手前の細めの木は葉っぱの数の少なさから秋から冬にかけての季節でしょう。葉の少なさを見て寂しさを感じてしまいますね。

木の元では犬と戯れている少年たちが描かれています。戯れているというか、犬が巻き込まれている様子でしょう。白くてむくむくしている犬たちは川のこちら側に野生として生きているのでしょう。

小さな橋が架けられていますが、紫の羽織をきた女性二人が渡っています。間隔を空けて橋は架けられているようですね。橋の向こう側には道沿いに茶屋のような小屋ができています。旅人が休息をとるのにちょうどいいスポットだったのかも知れないですね。

この絵はまるで広重が木に登って描いたような画角ですね笑。

◼️曳舟川

この画面真ん中を突っ切る川は曳舟川と言います。今でも曳舟(ひきふね)と名のつく駅が東向島周辺にいくつか名残っていますね。

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この赤ピンが曳舟川由来碑というものです。

曳舟川は、徳川幕府が本所開拓に伴う上水として、万治2年(1659年)に開削したものです。当時は、本所上水、亀有上水などと呼ばれ、瓦會根(現越谷市)の溜井から分水して、亀有から四ツ木をへて本所と深川の各地に配水されたようです。
 その後、享保7年(1722年)に上水としては利用されなくなりましたが、川筋の脇を四ツ木街道が通り水戸街道に接続しているため、次第に重要な交通路として利用されるようになりました。

重要な交通路としての役割を果たすようになったそうです。だからこの道も人々がよく通っていて、茶屋もいくつか並んでいて…な描写なのですね。

この川が「曳舟川」と呼ばれるようになったのは、「サッパコ」と呼ばれる田舟のような舟に旅人を乗せ、岸から引かせたことによるものです。
 また、曳舟川には古くから多くの橋が架けられており、薬師橋、鶴土手橋、地蔵橋、庚申橋などの名前が文献に見られますが、この付近(小梅児童遊園)にも八反目橋が架けられていました。この辺りの小梅という地名は、元は梅香原と呼ばれる梅の木の多い地域だったことによるもので、八反目の名も八反梅(80アールの梅林)から来ているとの説もあります。

名前の由来は田舟のような舟に旅人を乗せて岸を弾かせたことから舟を曳いた→曳舟と名付いたそう。一回見たら忘れない名前ですよね。

架かっている橋も古文書に記載があるほどしっかりと歴史があります。絵に描かれている橋の手前から八反目橋、庚申橋、七本松橋です。こんなにも小さな橋にも名前がしっかりついているのですね。

上の地図のように由来碑から北東に伸びている道が曳舟川通りという道で、ここが当時の曳舟川があったところです。今では埋め立てられて現存していませんが、きちんと名前として道名に残っています。

その北側に並行して小梅通りという通りがあります。

題名にもあるとおり小梅堤があったところですね。

小梅の由来も引用したものに記載がありました。梅香原と呼ばれた梅の木の多い地域だったことから付けられた名前であるそう。一番手前の橋である八反目橋(はため橋)八反梅(80アールの梅)という音から文字られて作られた名前の橋であるそうです。

今回は曳舟の由来と小梅の地域について見ていきました。

今日はここまで!

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