茹ですぎた素麺
文/構成:諸々
ーー文章って、どうやって書けばいいんだろう?
「文章を書いてもらえないかな?」という話をもらって、面白そうです是非にと二つ返事で答えた割に、いざ何かを書こうとすると、文章としてある程度の強度をもった輪郭を為す明瞭な実像が結ばれない。何か紡ぎ出そうとしても、頭の中には言葉の断片とも言えないほどにヤワな、夏の熱に肌を溶かされた綿菓子のような、感覚とそれに付随するとは言い難い関連の言葉がちらほらと浮かび、その度に舌の上で溶け、後味も残さず消えていく。後にあるのはただ味がしたという記憶だけで、その味も、舌触りも、香りも、思い出そうとしたところでまるで辿ることができない。そこに味があったという確かなもどかしさが、浮かぶ新しい言葉の断片に意識を向けることへの妨げになり、それによって一層、思考を紡ぎ出すことが困難になる。明らかに物を書くことに向いていない。言葉一つ書き出そうとしてこの体たらくなのに、まして文章を書こうなどというのは論外だ。書くことの不適合さと茹だる気温の中の仕事の疲労に、思わずため息が出た。
今日は8月16日、金曜日。梅雨らしからぬ渇いた7月を追って潤すかのような付け足しの雨が、夏の太陽の定常作業によって湧き立ち、へばりつくような暑さに拍車をかけている。こんな天気だから外作業じゃなく事務所にある小屋で自作肥料を作ってくれ、と上司から頼まれ、酒粕やら米糠やらを桶に入れて混ぜ機械に叩き込んで粒の肥料を量産していた。その目的は肥料作りというより腐敗した材料の処分だ。作付面積を増やす予定が畑が借りられなくなり、作物の植え付けが遅れに遅れ、作業に追われる中で材料はとうとう腐り始め、嗚咽を誘発するほどの匂いを放ち始めていた。機械がそれらを飲み込む時、熱をかけて菌を殺し圧縮して成形するため畑に撒く頃には臭いは消え、肥料としての体をなすのだが、今はまだその臭気の中に身を置くより他になく、さらにこの暑さの中で熱を放つ機械が側にあるということが、僕の気持ちを削っている。加えて風の抜けない小屋は熱気をこれでもかと蓄え、蝕むような気候を増長し、局所的に熱帯を生み出している。外に出ていた方が涼しかったんじゃないかと沁み出す汗を拭いながら思う。あと1時間やったら終わりにしよう。8時から続くこの作業もいよいよ肥料の置き場がなくなり、遅くとも17時には終わらせなければ悪臭を放つこの植物のエサで小屋が埋め尽くされてしまう。集中力も切れ始めた。ひとまず水を飲もう。このままでは終了時刻を迎える前に、身も心も干上がってしまう。水道水を入れた2リットルのペットボトルを取りに行き、ポケットの中では汗で水没するからと一緒に置いたスマートフォンを手に、途切れた気持ちの中であれこれ液晶を触っていた時に、文章の依頼を確認した。
面白そうだと思った。興味に加えある程度の希望的観測があった。文章を書く経験が豊富だったわけではないけれど、大学の卒論では四苦八苦しながらでも3万字近く文を書いたし、近頃も時折日記もつけていた。趣味で作曲する時には、旋律に付随して歌詞が同時に思いついた。言葉や活字に抵抗はない。だから言葉を連ねて文章を作るということも、なんだかんだやってみればできるものだと高を括っていた。
こうも違うとは。
明日以降の作業予定の打ち合わせが思いのほか短時間で終わり、19時半には家に帰り、あまりの空腹に4束の素麺を茹で、麺つゆにサバの味噌煮缶を加え、会社から持ち帰り輪切りにし冷凍保存していたネギをふりかけ麺を啜りながら考えを巡らせたが、あまりに思いつかない。素麺の茹で加減は、硬めが好きな僕にとってであっても少し硬く、モロモロとした食感で、噛んだ時に小麦粉の粘り気がかすかに残った。揖保乃糸であればこんなことにはならなかった。スーパーに行く気力もなくコンビニで買い済ませた乾燥素麺は勝手が違ったようだ。茹でが足りなかった。モロモロ、モロモロ。噛み締めるたびに気が散る。食べながら文章を考えることなどできそうにない。箸を止め、先日買ったメモ用のノートに、ボールペンで案を書き起こすことにした。思考が霧散する時は、目の前に物質として残すのが良いのだ。
文章を書き出すにあたりいくつか案はもらっていた。創作や日常のエッセイ、その他でも自由。僕に関して言えば昨年7月から福島県に移住し農業系法人で農作業に従事しているのだから、そのことについて書く、というのがオーソドックスかつスタンダードで書きやすいはずだ。例えば移住当初に7日間働いたのち、暑さに体がやられたのか微熱が1週間続き出社できなかったこと。ペーパードライバーからマニュアルトランスミッションの軽トラを運転せざるを得ない状況になり、初運転でギアがうまく入らず国道を時速15キロで走り続けたこと。昨年の猛暑でネギの育ちが悪く、雑草ばかりが伸びどこに目的の作物が生えているのかもわからない、ジャングルのような土地に収穫しに行ったこと。そうした記憶の断片は確かにあれど、それらは文章として形を変えて、眼前に現れようとはしてくれない。服を着せ、髪型を整え、顔を洗わせ、歯を磨き、なんとか文としての外見を整えても、歩き出そうとしてはくれず、少しつつけばその場で崩れてしまう。やっとの事で生まれ落ちた文は1次元でだけ形を保ち、2次元の軸上いかなる方向へも進展し得ない。
それは書き起こしても変わらず、点ばかりが増えている。
中学や高校、大学でも、文の書き方は習ったはずだった。起承転結、意味段落、根拠、接続詞、言葉選び。そうしたものを駆使して、要約だの小論文だの卒論だのを書いてきたはずだった。新卒で入社IT企業でも、研修報告書は必須だった。内容ごとに文を書き、総括し、それを踏まえた自分の考えを書く。そこに自分の意志は介在させず、あったがまま、事実のままに、書く。とにかく進める。出来上がればよい。
そうだ、枠組みだ。言わんとすることの枠をあらかた整え、それに合う言葉を選び、文として立ち上がらせる。一文ではフラつくというのであれば、他の文を使って支えさせる。そうして文が肩を組み一つの形を成す頃には、文章として成立するはずだ。小学校の組体操のように。そうして出来上がった形の一つ一つが模様になり、校庭全体を使って一つのオブジェクトが完成した。そうだ。よく思い出した。確かに書き方は習っていたじゃないか。先は見通せた。これでようやく書き出すことができる。まずはアウトラインを決めなくては。
だが、なぜかそのアウトラインさえ決まらない。これを中心に据えるべきものだという意志が、どの言葉にも働かない。自分の今の生活を占めるもの。農業、曲制作、車、景色、テレビゲーム。そういったものを眺めても、文としての様相さえ呈さない。どうやら自分のうちにある言葉や事象に、何か自分にこれを書くべしという気持ちを奮い立たせるようなササクレた取っ掛かりがないようだ。トラクター、ハイクリブーム、除草剤、殺虫剤、殺菌剤、ギター、shur、playtech、cubase、スイフトスポーツ、夏、クマゼミ、オンブバッタ、スプラトゥーン、エルデンリング。どの言葉も、僕が触れようとするとつるりとすべり、加えて各々がそれぞれの世界の中で完結している。文章の原点に置かれることに興味がないようだ。
ならば今自分の外側にあるもので意志が働くものはないかと、いよいよ本棚の中を探り出し、星の王子様だの1984年だのライ麦畑でつかまえてだのが床に放り投げられたところで、このままではどうしようもないと我に返った。そういえば夕飯を食べている途中だった。21時。明日も仕事だ。事務所から1時間半かけて別の畑に行き、お盆休み期間で野放図に成長した雑草と戦わなければならない。マルチシートを貼った中に根付いた雑草は、手でむしらなければならない。気温は30度を優に超える。駆逐し切るには少なくとも1週間はかかるだろう。何せ音楽スタジオ200部屋分の広さの畑だ。早く飯を片付け、休まなければ。そう思い素麺を啜り始めたが、明らかに速度が出ない。モロモロ、モロモロ。皿にはあと2束分は素麺が残っている。下手な思考が長引いて小麦粉の塊と化したそれは夏の部屋の中で常温になっている。食欲はいつの間にか収まり、腹には水分以外入る余地はない。
ーー茹ですぎたな。
蒸された部屋の中でエアコンをつけ、涼が流れるのを待ちながら、僕は残りの素麺と格闘した。
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