「人間の不幸はすべてただ一つのこと、すなわち、部屋の中に静かにとどまっていられ ないことに由来するのだ。」
部屋を出る。旅をすること。右足を靴に通して、それに付随し左足にも靴が通される。論理的必然。都市を歩く。右足を前に出せば、必然的に左足による次の一歩が決定される。論理的帰結。
目的もなく路地を漂い、角を曲がり、信号から信号へと渡り歩くこと。迷路のような都市は思考のメタファーだ。我々がある事物について思考を巡らせるとき、思考はA→Bのような直線を描かない。それは波状に広がる書き記すことのできない樹形図。
思考には複雑な巨大都市の地図と同じで始点がない。それは波状に増幅し続ける。ある思考の源流は、樹が枝を伸ばし生い茂るように次から次へと別の思考へと派生していく。そこには終点もない。思考は、都市の経路図であり、体中に張り巡らされた血管・神経回路の様相を思い起こさせる。我々が都市を旅すること、それは思考の道筋そのものだ。
部屋から出なければ旅はできない。人は旅をせずにはいられない。それが不幸であることを意味するなら、部屋から一歩も出られない人は幸福なのだろうか?
マサチューセッツ州、アマーストにあるエミリー・ディキンソンの家。そこで販売されていたパンフレットの一節。「この寝室兼仕事部屋で、エミリーは魂は独りでいても満ち足りうると宣言しました。しかし彼女は、意識が解放であると同時に束縛であり、この部屋にいても自分がやはり、みずから招いた絶望や恐怖の囚われ人であることを発見したのです。(...)したがって繊細な訪問者は、この部屋に、詩人が感じた優越感・不安・苦悩・諦念・恍惚といった諸々の感情をすべて包含する雰囲気を感じ取ることでしょう。」注1
人はその内部に血液の経路図・神経回路を保有している。これは、都市の経路図、すなわち外部へと広がる「旅」の模倣にほかならない。部屋の中で孤独にその生涯を終えた人間も、不可避的に思考し、詩を書くことで彼女がたどった思考の道筋そのものが、「旅」に他ならなかった。
『ヨナ書』と『ピノキオの冒険』。ヨナは逃げる。ピノキオは父を探す。ヨナはクジラの腹の中で死を悟り、ピノキオは鱶の腹の中で父を見つける。二者にとって、旅と部屋は不可分のものだった。旅によりそれまでの「私」を捨て去ること。巨大な暗室に飲み込まれて、その中で別の何かへと生まれ変わること。一歩も動かない旅を終えた彼らが部屋から一歩踏み出す時、彼らはまったく別の存在になっている。
二つの対照的な部屋。光の差し込む部屋。フェルメールの『青衣の女』。現在の瞬間がそれ自身において満ち、それ自身において充足しているもの。幸福な夢。どこへでも続いていく希望の象徴。ゴッホの部屋。出口が存在しない、過去の一時点が固着された牢獄としての部屋。浅い眠りがもたらす悪夢。未来はここで潰えた、という絶望の象徴。
私にとっての部屋。ドアノブの向こう側には赤いネオンサインがある。赤いネオンを取り囲んでいる、開発から取り残された無機質な街。墓標のような高層団地群。あれは潰えた可能性を象徴するものだった。
それとは反対に、どこにでも続いている私の部屋。目を閉じて毛布をかぶっている限り、どこへでも旅に出れる。誰とでも会える。その限りにおいて、人間の不幸はすべてただ一つのこと、つまり、部屋の中に静かにとどまっていられないことに由来すると思うのだ。
1 ポール・オースター「孤独の発明」柴田元幸訳, p191 新潮社