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194 十二月十九日、ボランティア用の宿泊先へ
確か二月にやっと現地入りできて能登食祭市場を取材して以来、ずっと気になっていた一つのことがありまして。
「来年の一月一日はどうなるんだろう?」
能登半島の発災の日はよりによって一月一日。それは明治の改元以来ずっと育み培ってきた、日本の正月文化が破綻した、少なくとも破綻しだしたことを意味する。つまり来年から、一月一日は新年の初日だからと言って無邪気に喜べる日ではなくなったということ。
だから私が注目するのは新聞各紙の能登関連記事の位置づけ。そしてテレビやラジオで報道するのか。すくなくともTBSラジオは当日の午後四時、能登地震の番組を放送するらしい。ここら辺は荻上チキの判断と日付指定の時間帯確保への熱量に頭が下がります。
さて一昨日の続き。午後三時に作業が終わり、今度乗るバスはは宿泊先行き。そう思って荷物を置いておいた朝乗ったバスに戻ったのですが、出発直前に宿として予約していた航空学校へは寄らないことが発覚。しかもそこへ行くバスは出た直後。マンガのような万事休すと一瞬思ったけど有り難いことに瞬時に関係者が私のために動いてくれました。
そしたらボラバス経由でなく自家用車で来てくれたボランティアの方、実はこの一日目のボランティア活動で私に話しかけてくれた親切な人が、そこに飛び入りで泊まるつもりとのことだったのです。有り難くその方の車に便乗させてもらい、宿泊先に向かったのでした。二人とも能登に不案内なのでカーナビだけが頼りだったのですが、やはり文明の利器、十分に活用して無事宿泊先に着いたのでした。
まず運転手が受付に行って無事宿泊許可証を入手し、次に私も同じ受付に行って私の名前を確認してもらってネームプレートをもらったのでした。その時のいで立ちは長靴を履いたボランティア活動のときのまま。次の日もあるから下着や靴下以外は着がえる予定はありませんでした。
そして宿泊部屋へ。四階だったのですがテントのような個室が並んでいるような状態で、ちょっとゲストハウスみたいでした。そう思って一時しのぎと考えればその狭さも気にならなかったです。そこで荷物を置いた後、一階に降りて談笑室に入ったのです。
その時点でも多分せいぜい五時。無理はできないボランティア活動だから宿泊先の夜は長い。ゆっくりと次の日のための英気を養ったのでした。
談笑室の中は暖かい。差し入れも飲み物やお菓子などふんだんにあり、連日組のボランティアを労わる気満々の待遇でした。私は遠慮してお菓子を少し食べただけでした。コンビニで買った弁当もあったし、食べ過ぎて却って体調不良になることを恐れたのでした。
ここで少し休んだあとはお風呂。受付や談笑室、テント室がある言わば「ボランティア宿泊棟」とは別棟で、一旦外へ出なければなりませんでした。どこまで歩かなければならないかと思ったけど所詮敷地内、出ればその棟は簡単に見つかりました。そして入ったら実は売店で食堂。ここで飲み食いしても何も問題なかったことがこの時わかったのでした。しかし今回はまっすぐ男子浴場へ。
そして湯船に入ったけど熱い! 寒い時期だから本来少し熱くても長風呂できるはずだけどそうもいかず、割と早々に浴場を出たのでした。浴場を出たあとは自販機で飲み物を買って飲み、元の棟へ。そこで夕飯用の弁当を食べ、さらに暖かいコーヒーなどを飲んで談笑した後、ようやく寝る時間になって四階の自分のテントに戻ったのでした。
そこで使うのは八王子の社協名義で輪島に来た時以来のシュラフをザックから引っ張り出し、寝る準備にかかったのでした。(大塩高志)