17時16分。
夕方の5時を過ぎて、あと15分でようやく退勤時間だ。
今日も定時でしごとは終わりそう。
労働というゆるい拘束からほっと解き放たれることはうれしいけれど、替わりに別の思いが押し寄せてくる。
今日もこのあと、なんの予定もない。
誰かと会う約束も、行きたいところも、買いたいモノも。
ひとつずつに思いをめぐらせて確かめてゆくけれど、どれも思い当たらない。
このまま家に帰ったとしても、なにをしよう。
Netflixでイッキ見したいようなドラマも最近見つけられていない。
17時16分。
足踏みをするような気持ちで、タイムカードを打刻機に差し込んだ。
*
駅前の小さな本屋に立ち寄る。
せめて今日を「本屋に寄り道した日」にしたい。
文芸コーナーの棚をひと通り見て、もう帰ろうかと出口の方へ振り返った瞬間───高橋さんと目が合った。
お互いに「あっ」と声を出し、向き合ったまま立ち止まる。
「ひさしぶり。今、帰り?」
テレビや映画の中でしか見なくなった高橋さんの顔がくしゃっとなって笑う。溢れた吐息が私の鼻先まで届きそうで恥ずかしくなる。
「そうです。この近くで働いていて」
「そうなんだ。僕も撮影の帰りで」
「……それ、買うんですか?」
高橋さんは分厚いハードカバーの本を一冊、手に掴んでいた。
「うん。新幹線の中で読もうかと」
高橋さんはそう言って《直木賞受賞作!》と大きく書かれた帯を指さしながら笑った。それから唐突に、
「そうだ、ご飯でも食べない? ちょっと待ってて」
と言い残し、すたすたとレジへ向かった。
相変わらず彼は急だ。私の返事も聞かない。
会計を済まし、本にカバーを掛けてもらっているのを待っている高橋さんの横顔を見ながら、今日は「昔好きだった人にバッタリ再会した日」になったと思った。
それからご飯を食べに行って、高橋さんの近況を聞いて、仕事の愚痴なんかも少し聞いて(恋愛の話はあえて訊かなかったけど)、「最近はどうなの? 元気?」と訊かれて、それじゃ「元気です」と答えるしかないよなぁと思いながら「元気ですよ、まぁ」と答えた。
前に高橋さんに画像を送って見せた猫はもう死んじゃって、昨年はあまりうまくいかないことがあって体調も崩して結構きつくって、それでようやく最近「元気ですよ、まぁ」になったんですけど、という全部は言えないまま、高橋さんの新幹線の時間が迫ってきたので店を出て、駅へと向かった。
このあと、どうなったら今日がもっといい日になるだろう?
高橋さんが新幹線の切符を破り捨てて「もう一軒行こう」なんて言ってくれたら……? でもそれで、どうなるの?
「高橋さん。先週始まったドラマ、観ました」
「あ、どうだった?」
「どうだったというか……私が思ったのは……」
「なんかコワいな感想聞くの」
「……私が思ったのは、高橋一生というのは、この世で誰一人として高橋一生の良さに気づいていなくって、私だけがたったひとり高橋一生の良さに気づいていて、そしてその唯一無二の私の愛情に、高橋一生も“この人しかいない”と私を深く愛する世界だったらなぁ此処が! と強くつよく思わせる人物である。……そう思いました」
「え?」
「でも同時に、此処はそういう世界では決してないので、私は高橋一生を、好きだとかファンだとか大好きだとか愛してるとか絶対に思わないようにしよう線を引こう、と思って生きています。どうですか、ちょっぴり哀しいでしょう?」
「でしょう? と言われても……」
「それくらい、あなたは素敵だってことです」
───そう一瞬にして想像をして、私は本屋を出た。
こんなところで、昔好きだった人にバッタリ再会でもしたいと思ったけれど、誰ならいいか思いつかなくて、先日ドラマで観た高橋一生を召喚してしまった。
駅のホームは金曜日の早い時間のせいか、人はまばらだった。皆、誰かと飲んで帰るのだろう。
帰宅してひと息ついて、YouTubeでほんわか女子が白湯を飲んだり部屋やワードローブをまったりと紹介する動画を観たりして、「私もこんなだったらなぁ」と想像してほっこりする。
何も買わず、誰とも会わず、じぶんの気持ちも話せずに終わり重ねる日々でも。
何をしたわけでもない、インスタに上げるような写真も撮れていない、誰かの投稿の♡を押すだけだった日だったりしても。
それでも、「夢をみた日」に今日もなれば。
fin.
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