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戦争(と泡盛)の旅〜沖縄戦が起きた理由は沖縄にない

就職してから初めての6連休。せっかくなら海外に行こうと思っていたけど、連休の後半は既に東京での予定が決まっていたので、今回は2泊3日で沖縄に行くことにした。まあこれが本当に、収穫の多い旅だった。

最近は固有名詞も思い出せないし、大事なことも忘れてしまう年になってきたから、ここにまとめておく(老い若干早め)。

沖縄を選んだ理由

誰も知り合いのいない土地に行って、仕事から解放されて、ゆっくりお酒を飲みたかった。そんなノリで泡盛を飲みに沖縄へ。でももう1つの理由がある。沖縄戦のことを勉強してみようと最近考えていたからだ。

大学最後の春休みにドイツの友達に会いに行った時、日本はウクライナ戦争のことどう思ってるの?どんな情報が入ってきてるの?って聞かれて全然答えられなかった。

確かに、日本よりもドイツの方がロシアやウクライナに地理的にも文化的にも近い。だとしても、彼らは「自分ごと」として戦争について語っているのに比べると、自分はぼけーっと過ごしている。戦争が実際に起きた場所に足を運べば、少しは変われるのかなあと期待を寄せて、沖縄を選んだ。日本で唯一地上戦が起きた場所だ。

(1)被害者一人ひとりの痛みに向き合う

今回は一人旅だったので時間を気にせず、昼間は資料館やガマに入ってゆっくり色んな展示を見てみることにした(あ、夜はゆったりと泡盛を飲んだヨ)。

今回見に行った展示のうち共通していたメッセージは、当時どれほど多くの人が戦争によって悲しみ、傷つけられたのかということ。一人ひとりの証言から見えてくる苦しみ、想像を絶するような痛み。こうした痛みはずっと忘れてはならない。戦争みたいな大きな話を自分ごとにすることができるから。

一人ひとりの命は大事なのだから、互いに思いやりを持って生きましょう。戦争は繰り返してはいけません。みんなで一緒に平和を築きましょう。どんな人が反論しても覆せないであろう完璧なフレーズ。耳にも優しい柔らかな言葉。

だけどなんというか、そういう隙のない言葉に勢いよく飲み込まれてしまって、じっくり考えながら展示を見るのは難しかった。

戦時中の人たちも生きたい、平和に暮らしたいっていう気持ちは同じだったのでは?それでも戦争が起きてしまった理由が知りたかったのに、どうやって理解すればいいのかわからなかった。

(2)構造的な視点から戦争に向き合う

こうした違和感を感じたのは、社会構造に目を向けた展示が少なかったからだろう。どうして残酷な作戦が実行されたのか。当時の日本で沖縄(の市民たち)はどう位置づけられていたのか。そうした戦争の背景にある事情については、(自分が目にした範囲では)ほとんど触れられていなかった。

沖縄戦のこと知るために沖縄に来たのに、遠い場所で起きた出来事を見ているようだった。資料館のショーケースの中に並べられた歴史の数々は、ぼんやり曇っていて見えづらかった。

戦争が個人の視点からばかり語られてしまったらどうなってしまうのだろうか?

今回の旅で最も印象的だったのは、展示の中にちらほら目にした軍人たちの人柄に関する記述だった。

例えば、沖縄戦を現場で指揮した第32軍トップの牛島満(1887−1945)だ。子供好きで人当たりが良いと周囲からの評判がとても良かった。しかし、彼は第32軍に南部撤退を命令し、その結果として何万人もの市民が命を落とすことになったのもまた事実だ。

以下は、牛島満の孫で元公立小学校教員の牛島貞満の体験談の引用だ。

 1994年、気候や人々の暮らしについての教材づくりのために、沖縄の離島に行くことになりました。教員仲間に説得され、最終日だけ本島に立ち寄り、旧沖縄県立平和祈念資料館に行ったのです。気は進みませんでした。資料館に入ると、奥の方に「牛島中将最後の命令」と書かれたプレートがありました。

 「最後まで敢闘し、悠久の大義に生くべし」

 その脇に、「牛島司令官の自決が戦闘の終結ではなかった。この命令で最後の一兵まで玉砕する終わりのない戦闘になった」「十数万人の非戦闘員は砲煙弾雨の中、放置された」との説明がありました。

 知識としては知っていました。でも、それまで祖父の命令の重さを実感していなかった。見慣れた祖父の写真が違って見えました。

(中略)

 祖父は戦場でも、人当たりがよく、子ども好きだったそうです。家族から聞いていた話と同じでした。そうした姿を知れば知るほど、人柄と命令の落差が広がりました。

「3つの命日がある祖父は沖縄戦司令官 向き合う孫が考える歴史的評価」
2022年10月7日 朝日新聞DIGITALより


人気者であり極悪人?

ひとりの人間の中にある矛盾、ギャップ、別の顔。この落差をどう理解したらいいのだろう。とても優しい人がいつの間にか極悪人になってしまう恐ろしいシステム。戦争の根幹にあるこうした違和感や気持ち悪さにこそ、戦争を構造的な視点から見なければならない理由があると思う。

被害者1人ひとりの痛みの視点から戦争を見つめることは、とても大事なことだ。ここに反論の余地はないだろう。でも加害という文脈に置き換えてみると、個人の視点の限界がはっきりと見て取れる。

家に帰って調べてみると、当時の政府は本土決戦を避けるために国民に伝わらない形で沖縄戦を「意図的に」長期化させ、結果的に何万人もの沖縄の人々が亡くなったとされている。沖縄の資料館ではそれがほとんど説明されていない。

だから展示内容がぼんやりしてしまう。国が「何か」を守るために時間を稼げる「どこか」遠くの場所が必要だった。それが沖縄だっただけなのだから。

だから、沖縄戦の理由は沖縄のどこを探してみても見つからない。

個人の痛みというものは、大きすぎる話を自分ごととして考えるのにはとても大事だ。でもなぜ?どうして?あの時代にまた戻れたら?今できることって?という疑問に答えてくれるわけではない。

これだな、ドイツに留学した時に通っていた高校での歴史の授業で感じた驚き。Nationalsozialismusについて勉強した時に感じた日本の歴史教育との違い。やっぱり大きな衝撃を受けた。ヒトラーを悪者にするだけなら歴史の授業は一瞬で終わる。自分と同い年か年下の子たちが何十分も激しく議論しているのを目の当たりにした時のあの感覚には戦争を構造的に捉える視点が関係しているのかも、と6年も経ってからやっと腑に落ちた。

(3)日常の中の戦争

ここまで書いてみたものの、どんな展示内容が望ましいのかはまだわからない。ただ、集合体になると、時に人間はとんでもなく愚かなことをしてしまうという恐ろしさがダイレクトに伝わるのが望ましいと思う。そして、戦争というスケールの大きな文脈だけでなく、日常のありふれた状況にスライドできるようなシンプルな展示がいいのではないか。

そういう展示は難しいんだろうか。ただの机上の空論に過ぎないのだろうか。

私は展示を見に訪れた来館者のひとり。あの時代に生まれていたら、戦争を黙ってみてるしかない国民のひとりだったんだろう。

日常のありふれた状況の中で、危機感を持ったり、憤りを感じたり、他人に自分の意見をぶつけたりする勇気を持ちながら他人と分かち合えるような賢い人になれるように頑張らなくちゃなあと思った旅でした。

沖縄でゆっくり泡盛が飲める時代に生まれた自分はしあわせ者です。この旅をきっかけにこれからどんな発見があるのか、すごーく気になる。

おーわり!!

【参考文献】
3つの命日がある祖父は沖縄戦司令官 向き合う孫が考える歴史的評価.朝日新聞.2022-10-07,朝日新聞DIGITAL

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