社会人になるって?
4月に社会人になった。社会人になって1番衝撃を受けたこと、それは「私は女性として見られている」ということだ。
そんなの前からわかってたでしょって自分でも思う。それに、社会に「女性」というラベルがあるということは既に知っていた。
でも、自分がそういうラベルを貼られる対象であることをちゃんと自覚したのは初めてだった。
え、私って女なんだ。なぜか、シンプルに戸惑っている自分がいる。何か、重いものが自分にのしかかったような気がするのは、なぜ。
この間、いつも優しい言葉をかけてくれる60代の上司が少しワイルドな振る舞いをした同期に対して、お客様の前では女の子らしく振る舞わないとダメだよ、と注意していた。注意と言っても、いつもみたいに本当に優しく柔らかい言い方で笑顔で声をかけている様子だった。
隣にいた同期がそう言われているのを聞いて、私はなぜかaggresiveになってしまった。自分が注意されたわけではなかったんだけど、その上司に吐き捨てるように「女の子らしさねぇ」と嫌味をぶつけて、その場をスッと立ち去ってしまった。
優しくて柔らかくて、丁寧でかわいい「女性」?弱者の「女性」?
それは、明らかに痛みだった。
立ち去る直前、え?って戸惑う上司の顔を見て、やってしまったと思った。自己を否定されたくないと訴えようとする時、真っ正面から向き合うことなく、他者をぐにゃっと否定するのはあまりにも子供すぎる。しかも、めちゃめちゃ偉い上司に対して。流石に反省している。
あの瞬間、社会の中で語られている不平等や格差を個人的な痛みとして知覚した。
よく社会問題が取り上げられる時、気にしすぎとか大袈裟だとか、まるでお気持ち表明を嘲笑うかのように批判する人がいる。
でも、こういう時のお気持ちとはノイズじゃない。悲鳴だ。叫びだ。小さな個人の心や”お気持ち“が構造によって傷つけられている。それ自体がとてもとてもシリアスな問題なのだ。
ああ、なんで私は「女」に生まれてしまったんだろう。私はそんなこと一度も望んだことないのに、と初めて思ってしまった。選択肢がないということがこんなに“痛い“ことだと、恥ずかしながら初めて知った。
逆に言えば、これまで性別が理由で傷つくことがなかったのは、本当に恵まれた環境で生きてこれたからだった。マジョリティの「あたりまえ」の社会の中で、私は何の不安や葛藤もなく生きてきた。体と心の性が違うのことで悩んでいる人もいる中で、私は女だということを意識せずとも女でいられたんだ。
甘くないんだな、社会人になるのって。
というか、甘かったな自分。わかってたじゃん。ずっとぬるま湯の中でぬくぬくしてただけだから。
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