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おしっこと結論

そんなに尿意はないのになんとなくトイレに行くことがたまにあって、そのときに誰かと隣り合わせになると困ってしまう。尿意がないので当然待てど暮らせどおしっこは出ないのだが、隣の人に「こいつ全然出ないな」と思われているのではないかと不安になるのだ。

まったく関わりのない人なら別にいいのである。だが、仕事で顔を合わせることがあるくらいの距離感の人だと、全てを説明するほどではないが誤解はされたくないという気持ちが生じてしまう。それで、なんとかトイレにいることが正当化できるくらいの量は出さなくては、と焦り、焦れば焦るほど気持ちが追い込まれ、プレッシャーでより出なくなるという悪循環に陥るのだ。

そうなってしまうともう逆転は難しい。ここから僕がとれる行動は二つ。出てないけど「出た」ということにしてその場を立ち去るか、隣の人が先にトイレを出るのを待つか、である。

「出た」ということにするにはなかなかの度胸が必要だ。何せ全く音がしていないので、出てないことがバレる危険性がけっこうあるのである。嘘をつくので後ろめたさを感じるが、それが伝わってしまうとアウトだ。むしろ堂々と大胆に振る舞わなくてはならない。「ああ、よく出た」くらいの顔をして、悠々とその場を去らなければならないのだ。本当は一刻も早く立ち去りたいにもかかわらず、である。胆力が試されるところだ。

かと言って隣の人がトイレを出るのを待つと、完全に「おしっこが全然出ない人」のレッテルを貼られることになる。それを受け入れるのが一番平和な着地なのかもしれないが、何も手を打たずに誤解されている状況を見逃すのは、人生に対して誠実な態度とは言えない気がする。たとえ失敗する危険があるにせよ、打てる策があるならやるべきではないのか。試行錯誤をやめてしまったら、それは本当の意味で生きているとは言えないのではないか。

そんなことを、全くおしっこの出る気配のない男性器をつまみながら考える。そもそもなんで尿意もないのにトイレに来てしまったんだ、と後悔したりもする。よくわからない。自分の行動が説明できない。しかし、それでいいのかもしれない。全部説明できる行動をする人なんていないだろうし。説明できないからこそ人間なのだろうし。いや、どうなんだろう。違うかもしれない。

あれこれ考えたところで、結局結論は出ない。ついでにおしっこも出ない。

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