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白鼠トマシンと花々
人は何かを見るために、先祖の導きに従って動くもの。それでも結局、齧れるものといえば水か泡。チーズを求めてお家をあとにしたのに、肝心のご馳走は、既に人間の手に渡ってしまったわ。それが羨ましいから、彼らの真似をする。同じものを食べ、同じ道を征く。それでもチーズにありつくことはできない。我々の先祖の顎の骨に付着したままなのよ。古来より、我々鼠が口にするものといえば、野菜や果物。草木に池までの道を訪ね、お礼にモグラがどのようにして根っこを荒らすのかを教えてあげるの。そうして話すうちに、花が咲いて実を熟し、次の春には、甘くなったそれを頂くことができるの。チーズなんかよりも、ずっと美味しい味がするはずよ。決してご馳走だとは言えないかもしれないけれど、それでも仔牛たちから、お母さんを横取りしないでも済むのだから。
植物は我々とは異なり、そこから一歩も外には出ることができない。私たちの生きる姿を見つめ、声を掛けようとしたって口は開かない。星が綺麗だと、皆んなが楽しそうにしてるからって、見たくても見ることができない。ただ、土に染み込む、アイスキャンディの叶えたかった本当の願いや、お面遊びに夢中な子供たちの落とした水風船。それらの冷たさや甘さに、根っこの部分で触れた際に、やっとの思いで、我々の住む世界がどんなものなのかを知ることができるの。だけどその時はもう、花のまわりには誰も残っていてはくれない。黒く滲んだ土の硬さを知ることもなければ、すぐ隣の川で泳ぐ可愛いメダカたちの向かう先になる木が、釣竿の材料にされることも伝えることはできない。花はただ人に踏まれ、愛でられ、称賛され、大事な約束をする際には、見てくれがいいからって、無理矢理にも知らない花たちと一緒にされる。そこには花の言うことに耳を澄ませる者なんて一人もいないのよ。だから彼らは、話を理解しようとしない我々のために、分かり易い言葉で纏めて、詩人たちに唄わせるの。彼らはお唄がとても上手なものだから、人々の気づかないことも、降らせた雪をオペラ会場に紛れ込ませながら、機会を見計らって、ちゃんと分かるように知らせてあげるのよ。そうすることで、唄は長いあいだ流され続け、難しい気持ちにも、一片のフナの鱗を、その子の目の前で落として差し上げるの。それまで思い悩んでいたことも、本当はその答えに気づいていることくらい、誰にでも分かるようにしてくれるわ。大切なことはとてもシンプルなのだと思い出し、自分の心も大事にする。その子の見た世界の価値を知るものは、その子だけなのよ。そうして皆んなが安心して眠るようになると、花はやっと渇くことができる。我々が知るのは花の落とした「嘘」。花は一言も、我々に対して何かを語って聞かせたことはない。そこにあるのは「花言葉」。花の生きる世界の静けさを知るものが、この世には一人もいない。我々はただ、見たいものを見ているだけ。花の見たい世界は、我々にしか生きることはできない。枯れてはならない、花ではないのだから。