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昂揚するマヨイガ
お弁当箱の中にはモスグリーンをした石鹸。黄色のベッドに沈んでは浮かび、その微生物の暮らすのに最適な繊維質の触れ心地と弾力はまるでかまぼこのそれのようにも喩えられる。指先で押しても、すぐさまこちらへと押し返すように、僕ら家族は非言語でのコミュニケーションを怠った。それらの「おしくらまんじゅう」は単なる偶像の産物でしかない。本来ならば話し合える。それでも僕らは、ウイルスとその他の多くの情勢に混乱させられている。人や街ではなく、石鹸を砕くなり燃やすなり、代償というのは観念的な象徴であることが多い。動植物以前の鉱物の状態のままに。
例えば石鹸をモスと呼んでみるとどうなるか。たちまちそのベージュ色をした体毛、その身の重み、猫とは異なる冷たさ。いずれも小動物としての特性を僕らの目の前へと呈示する。すり減り汚れ、代わりのモスなどは幾らでも輸入雑貨屋の棚に配置される。という様に何処までも言葉のコラージュは続いてゆくが、はじめの座標を見失うことはない。
試しにモスを裏返してみる。それまでと何も変わらない。下を向こうが上を向こうが、それらの古びた表面の滑らかさでさえも、その脆さに気づかない為のすり替えでしかない。モスにとっての上も下も地上に眠るついでに気分次第で寝転がったに過ぎない。又、ざらざらとした腹部から想起するイグアナの表皮に触れていたのであれば、いついかなる時であれ、僕らの全員が太古の動植物たちの席巻する森林へ迷い込むのだろう。目を瞑れば地殻変動の引き起こす草原の終わりを垣間見ることになる。
ところで、実際のモスはグリーンでもヴェールでも浅葱でもなく、ベージュ色をしている。散歩道にひっくり返る巨大な羽、そのモスは息絶える寸前にいた。腹部を上に、美しい体毛とカーテンの様な優雅な翼。これまでに出会った虫は数知れず。ただ「美しい」と、決して見捨ててはならないのだと、その日は喫茶室での休憩よりも、彼女によって、その先に訪れる日々にこれまでに忘れかけていた僅かな生き心地といった意味づけがもたらされた。指先を掴ませ、恐る恐る目線の高さへと持ち上げる。パサっと飛び去るのかと思えば、そのまま落下し、僕の背に爪を引っ掛ける。ショーウィンドウに映された自分の姿を何か別の生物の様に思えたのは、彼のそれまでには無かった小さく生えそろう羽が、肩の下に遊んでいたからだ。
そっと指先を掴ませたのち、それまでには浴びることのなかった僕らにしか味わうことのできない路地裏の隙間風を味わっていただけた。巨大な羽と小柄なマウスのような胴体。それからトビネズミのようなフサフサの体毛。このままではただ野垂れ死ぬだけだ。喫茶室に入る理由も無い。その日に終わる命なのも既に分かりきっている。なので指を掴んで頂いたまま、壁と壁の隙間に離した。飛び去ることはなく、ただ壁に爪を引っ掛け、横目でこちらとあちらを見つめる。その羽の揺らぎは夢のカーテン。その手は岩壁にしがみ付く蝙蝠の爪。そのうさぎの様な開かれたままの耳は、彼女が獣と同一であることをこちらへと呈示する。
その目は、その目が何を訴えてくるのかを知らない。ただ、翌朝にその地へ向かって知らされたのは、逆さまの蛾の標本。目を閉ざすこともなく、怖い羽模様で驚かすこともなく、ただ単に冷え切った死骸を僕に見せつけた。置き土産にしては古めかしい。石鹸の置くのは喫茶室のキッチンが良いのでは無いだろうか。眠る前にはエスプレッソを忘れずに。メメントモリ。
行き倒れのマヨイガが一匹、寒さに凍え、月の光も照らさない。浜辺に打ち捨てられた鯨がその身を捧げ、松明からは火が流れゆく。夜明けの街燈だ。マヨイガは彷徨うことをやめた。その日が消えればもう二度と惨めで哀しい思いをすることはなくなる。蛾は闇夜に消え去る光源に向かって飛びすぎた。昼間の落とし物は夜の終わりに焼け焦げた。羽模様のおどろおどろしさは最期に灰色と化した。ここにいない。ここにいる。外在する、という表現が適している。何故ならここには街燈は灯らない。密閉したガラス瓶の中、蛾は息絶えた。何の意味もない。現実を生きる。