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白洲次郎の生き方と逝き方

「お葬式はしないでほしい。戒名もいらない」と考えている人は、知らぬ間に白洲次郎の影響を受けているのかもしれません。白洲次郎は戦後の混乱期に吉田茂の側近として活躍した実業家です。長身に甘いマスクで洋装を着こなしながら、どんな立場の人にも率直に意見し、国内外から一目置かれた彼の残した遺言は「葬式無用 戒名不用」の二言でした。

白洲次郎の最初の愛車PAIGE(同型車)

子どもの頃から規格外!17歳でケンブリッジ大学へ留学、ブガッティを乗り回す

次郎は1902年、兵庫県芦屋市に生まれました。「白州商店」を営む父・文平は、綿の貿易で成功した実業家です。実家は裕福でしたが、次郎は型にはまらぬ異端児で、神戸一中にいた頃からいわゆる外車を乗り回していたといいます。

中学を卒業してからは、まるで「島流し」にでもされるかのように、英国・ケンブリッジ大学へ入学します。イギリスでも、ベントレーやブガッティを乗り回していたとのこと。常軌を逸したやんちゃぶりがうかがえます。

帰国後は留学時代の人脈を活用し多方面で活躍

次郎がケンブリッジの大学院にいた頃、実家の「白州商店」が恐慌のあおりを受けて倒産。次郎は「生涯、イギリスに住みたい」と考えていたものの、経済的事情から帰国せざるを得なくなりました。

帰国後はいったん英字新聞の記者になりますが、その後、留学時代の人脈が縁でセール・フレイザー商会の取締役となります。そして1937年には「日本食糧工業」の取締役に就任し、海外と日本を行き来することが多くなる中で吉田茂と親しくなり、英国大使館が次郎の常宿となりました。

175センチの長身で傍若無人に振る舞い、歯にもの着せぬ言い方をしながらも、どこか愛嬌があって憎めない。天皇陛下のことは、どこまでも敬愛する。そんな人柄が要人に愛され、受け入れられ、だんだん大きな役割を任されてゆくようになります。

この間、樺山正子と出会い、結婚します。白州正子もまた意志が強く、妥協を許さない生涯を送った随筆家として知られています。正子も葬式をせず、戒名もありません。

町田に引っ越し農業を行う日々……今も残る「武相荘」

武相荘

1940年、次郎はいったん仕事を辞めて現在の町田市に引っ越します。古い農家と農地を買い求め、家には「武相荘」と名付けました。武蔵国と相模国の境にあるその地にちなんで、また「無愛想」をかけてつけられた名前です。

なぜ次郎は要職を捨てて田舎へ越したのか。これには、戦時中の食糧不足も関係していましたが、ケンブリッジ大時代に培った英国式の教養が影響していると言われています。地方に住みながら、中央の政治に目を光らせる紳士のことを、イギリスでは「カントリー・ジェントルマン」というのだそうです。

遠くから眺めれば、政治の欠点がよく見える。そしていざというときには中央へ出て行って違う視点からもの申す、そんな役割を自身に課していたのではないでしょうか。

次郎は農業についてはまるきりの素人で、頑張ってはみるものの、実際は近所の知り合い農家に畑を任せきりであったようです。ただ、DIYは大好きで、素朴な木箱づくりや竹細工を得意としていたとのこと。なんだか微笑ましいですね。

吉田茂のブレーンとして活躍、数々の要職に就き経済成長に貢献

1945年、吉田茂に請われて「終戦連絡事務局」の参与に就任します。GHQと英語で対等に渡り合い、日本国憲法の誕生に立ち会ったあと、初代貿易庁長官に就任。日本と海外との関係を新たに作り、国としての発展を推し進めていく上で、裏方として、ときには表に立って活躍しました。

吉田茂が退陣した後は実業界に戻り、1951年には東北電力の会長に就任します。その後、荒川水力発電会長、日本テレビの社外役員など、さまざまな大企業で要職を経験しました。

洗練されたファッション、余裕のある身ごなし

次郎の魅力は、天衣無縫な物言いや、ブレーンとしての辣腕ぶりだけではありません。イギリス仕込みのファッションセンスと、それを着こなせる長身に端整な顔立ち、そして茶目っ気たっぷりの人柄。それなのに、かなりの照れ屋であったとも言われています。少し付き合えば誰でも敬愛を抱いてしまうような、人間的な魅力に溢れていました。

1975年には、「イッセイ・ミヤケ」のショーモデルを務めたほど。このとき、次郎は御年73歳です。

最期は急性肺炎。83歳没

次郎の最期については、正子夫人が以下のように書いています。

お腹がはるというので、レントゲンを撮ってみると、胃潰瘍がひどく、心臓は肥大して脈拍は乱れ、その上腎臓まで冒されていた。先生は、ここ一両日が山だといわれた。…(中略)…ベッドへ入る前に、看護婦さんが注射しようとして、「白州さんは右利きですか」と問うと、「右利きです。でも、夜は左……」と答えたが、看護婦さんには通じなかった。その言葉を最後に、気持よさそうに眠りに落ち、そのまま二日後に亡くなった。いかにも白洲次郎らしい単純明快な最期であった。

『遊鬼』

1985年11月28日、こうして次郎はロウソクの火がすっと消えるように、静かに息を引き取りました。

遺言通りに行われた「葬式無用、戒名不用」

正子夫人は、次郎の遺言を叶えました。次郎ほどの功績を残した人が、葬式をせず、戒名をつけないというのは、当時大変なことだったに違いありません。しかし、遺族はやり遂げました。

遺言により、葬式は行わず、遺族だけが集って酒盛りをした。彼は葬式が嫌いで、知りもしない人たちが、お義理で来るのが嫌だ、もし背いたら、化けて出るぞ、といつもいっていた。そういうことは書いておかないと、世間が承知しないというと、渋々したためたのが、「葬式無用 戒名不用」の二行だけである。

『遊鬼』

没後1年経って、有志により「白洲次郎をしのぶ会」が開催されました。三回忌にあたる翌年にも、忍ぶ会が行われました。


【参考文献】
『白洲次郎の流儀』白洲次郎、白州正子、青柳恵介、牧山桂子他、新潮社
風の男 白洲次郎』青柳恵介、新潮文庫
私の人物案内』今日出海、中公文庫
遊鬼―わが師わが友』白州正子、新潮社


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