悪と人間
人間は、絶対的に悪から逃れることはできない。
私は他者の悪から逃れることはできないし、
そうであるならば、私自身が私自身の悪から逃れることもできない。
私は悪である。
便宜上、
悪とは、他者にマイナスの影響を及ぼすことと規定しましょう。
つまり、生き物を殺し、それを糧とすること、
植物を育て、根こそぎに掘り起こし喰らうこと、
これは全て悪です。
これが悪でなかったとしても、
少なくとも殺人が悪ではない、という論に賛成する者は多くはないでしょう。
では、殺人が絶対悪であるならば、
なぜ死刑が存在するのか。
なぜ、国家は軍隊を持つのか。
これは、「生きるための殺戮は例外的に悪のそしりを免れることができる」という通念があるからです。
鶏を殺し、皮を剥ぎ、焼いて食うことに異論を唱える者は多くありません。
貴重な栄養源として、これを食うことは全社会的に認められています。
生命が明白な危機に貧している場合、他者を生け贄にすることは、正当防衛、あるいは緊急避難などといって、正当化されます。
死刑や軍隊の存在も、それと同様です。
「自らを守る」
これを貫くため、その大義名分の下では、如何なる悪も正当化される可能性があります。
絶対的な悪は存在しない、と我々は思いたいのです。
そうしなければ、生きるために殺戮以外の手段を取り得ない場合、我々は悪の汚名を着ることになるからです。
自ら進んで悪を望む人間はいません。
生まれたばかりの赤ん坊は、悪を望むことなどしません。
それまで普通だった人がある時悪に堕ちるのは、
それ相応の理由があるからだと、考えられています。
悪を望んでいるかに見えるサイコパスなどの人種にとっては、彼らの行為は悪ですらない、日常の一部です。
しかし、どのように生きる道を選んでも、この世にあるかぎり、我々は悪にならざるを得ません。
生きるためには、他者にマイナスの影響を及ぼすことを避けられない状況が、必ず訪れるのです。
そうしたときに、毎度私は悪なのだという意識に苛まれていては、まさしく本末転倒です。
悪の意識に身を滅ぼしかねない。
だから、我々はある程度の悪から目を逸らす。
生きるためにです。
わたしたちは幸福を求めます。
幸福を求める心は善を生む。
しかし、生きるための悪は避けられません。
このことからも、性善説や性悪説といった二元論は意味を為さないことがわかるでしょう。
わたしたちは、悪から逃れることはできない。
しかし、だからこそ、常に何が悪であるかを問い続けなければなりません。
避けられないことはわかっていても、限りなくそれを避ける道は選ばなければならないのです。
むしろ、努力によって、相当までに悪の道から離れることができるのも、人間の特徴です。
あらゆる人間が常に善と悪は何かを問い続け、自らを悪から守る努力をすることが、本来の意味での「平和」に繋がるのです。