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愛情って綺麗だけれど、それだけじゃない。

今日は静かに雨が降っている。こんなにずっと降り続けてるのは久しぶり。

この間、ザリガニの鳴くところを見た。たまたまひとつの映画を見終わった後に、次に見るオススメみたいに表示されてて、本が出てたのは知ってて興味はあったのだけれど、なんとなくいろんな事に紛れて忘れていた。

タイトルがもうずるい。それだけで完結してるくらいいいタイトルだと思う。
映画も結末がどうのっていう事より、人間社会の間で暮らす時間が少なかった主人公が当たり前に備わった生存本能を発揮したら、なんの躊躇いもなくそうするだろうなあと思った。出版社の人との会食のシーンではっきりそう言ってるし。
弁護士に最終弁論を自分の言葉で語った方がいいと勧められたのに断ったのは当然のことだろうし、嘘をつくよりは黙る方を選んだのか、生きるためにもっと狡猾な人間だったとしたら、自分の事を自分で語るより他者に語らせたほうが、信憑性も出てくるのは当然の事だし、全面的に同情して助けたいと思っている弁護士の方が、陪審員の心を動かせる。

ある意味、本人の良心の呵責も、そうするしかなかったっていう良いような悪いようなよくある理由より弱く見えるし、その歳までそうやって当たり前に生きてきたのだから、お涙頂戴のお話なんか本当はできないよね。

自然の中で多くの1人の時間を過ごしながら生きてきても、大好きな湿地や湿地の自然や鳥や生き物に対する執着は、執着するものが違うだけで、都会で生きてる人間と同じなんだなと思った。
愛する対象が自然っていう方が、美しく純粋に見えるなんてそんなことはない。車だって家だって生活だって鳥だってザリガニだって、執着してることに変わりない。どちらもそれを愛するという感情の一つの種類だと思っている。

強い。彼女が街の人たちから差別されて、湿地の中で自然を愛して生きてきたことは十分わかってはいるのだけれど、私にはとても恐ろしい人に見えた。どうしたって太刀打ちできない。行動を起こす上での根本的な理由が私とは違う気がするから。

愛情っていうのは大切なものだと思うけれど、やもすると愛情を知ってるが故のめんどくさい感情っていうのもある気がする。色々な種類の愛から学んでいく道徳観っていうのもあると思うし、愛されれば愛されるだけ、行動や感情に制約がかかってくる気もする。

きっとバランスなんだろうと思う。多すぎても少なすぎてもダメなんだ。与える側と受け取る側のずれも出てくるだろうし、強すぎても弱すぎても傷つけてしまいかねない。厄介なものだ。

動物や植物や昆虫は、本当に本能のままに生きているのだろうかと思うことがある。犬や猫なんかの身近な動物には感情があるように見えるけれど、それは長年人間の近くで暮らしてきた感情の模倣かもしれないと思う事もあるし、今、人間の近くにいる犬や猫も、自然で生きてるままだったらどんな感じだったのかな。

でも、野生だからといって本能だけで愛情がないわけでもなさそう。
それが愛情からくる行動かどうかははっきりわからないけれど、自分の死んだ赤ちゃんをずっと手放さずに抱き続けるお猿さんがいると聞いたことがある。
ライオンは自分達が食べるためにしか他の動物を殺さないって随分昔からの定説みたいに言われていたのに、最近では見せしめのためにナワバリをうろつくハイエナを殺すことがわかってきた。食べないのに。

愛情は本能の中に初めから組み込まれているのだろうか。
本能っていわゆる食べて、寝て、子孫を残してみたいなことかなあ。
その本能を満たすために行動を引き起こす思考が、後付けの感情として愛情になっていくんだろうか。
それとも愛情は初めは本能に組み込まれてないのかなあ。でも、赤ちゃんを産んですぐ世話をする動物もたくさんいる。
だとしたらそれは愛情ではなくて、子供を産んだら考えるまでもなくただそうするっていう、本能から出てくる行動なんだろうか。

あー雨が止んじゃった。今日はそんな気分だから、どうせなら一日中ある一定の量で降って欲しかったな。曇ってるからまた降り始めるかなあ。
落ち着いた日を過ごすのも悪くない。

お仕事もあるし、今日は散歩しないで家にいよう。

暑い暑いって文句言ってたのに、秋が近づいてくるとちょっと寂しい。
だけど、秋っていう季節も、空は高くなるし、風は気持ちいいし、美味しいものもたくさん出てくるし、そう思えば楽しみでもある。

ちょっとだけニューヨークに行きたくなった。適当に美術館とか博物館に行って、別に何もしないで街とか公園とかをブラブラしたいな。
コニーアイランドにも行きたい。
夏の終わりのコニーアイランドは、大好き。
雨が降ってたらもっといい。




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