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図鑑と本に囲まれた病室。子供の頃の聖域。

本が好きだ。
これにははっきりとした理由があって、小学校に入学するまでに2回、小学校一年生の時に2回、長期入院をしたせいだ。
今みたいにタブレットとかネットとかがあったら、確実にそっちを選んでいただろうけれど、如何せんその頃は、そこら中にそんな電波は飛んでいなかった。

入院すると体調が悪かったり、治療していたりとか以外はとてつもなく長いフリータイムを過ごせるわけで、誰に遠慮することなく好きなことができる。

本が友達になるのは時間の問題だった。やっぱり入院の差し入れみたいなものは、王道の果物、花、絵本。あんまりたくさん食べる方じゃなかったし、あの頃は食べることに興味がなかったので、まずは絵本にどハマりする。そのうち読むのが早くなって、今度はこちらから要求するようになる。絵本も好きだったけど、その中に書かれてる教訓を含んだ夢物語的なお話より、実写版の図鑑が好きになって、それこそハードカバーなのにちょと手垢か湿気で膨れるくらい読んでいた。図鑑の全集とか買ってもらったせいで、そのうち私の病室は、担当の先生にちっちゃな図書館と呼ばれるようになって、先生や看護師さんまで本をくれるようになった。

アントワープのプランタン=モレトゥス。1日見ていても飽きない宝物だらけ☆

子供らしく生き物の図鑑とかも好きで、今、「この動物ってなんだろう?」とか「この虫ってなんだろう?」みたいな会話になった時、たいてい即答できるのはその時代のおかげだと思ってる。

ある日、昆虫の図鑑を見ていて、大きな薄い水色の、なんともしれない優美な形をした蝶を見つけた。子供の私は本当にそれに釘付けになって、もっと青が派手なモルフォチョウとかも載っていたのに、俄然この薄い水色の溶けそうな羽を持った蝶に惚れてしまった。
毎日一回は、「綺麗だなあ、退院したら見にいこう。」と思って眺めていた。
姿形にばかり目がいっていたせいで、後で説明文をよく読むと、その美しい生き物は蝶ではなくて蛾だと書かれていた。蝶と蛾の違いの説明とともに。
私にとってそれは「へーっ」ていうくらいのことで、だから触覚がかっこいいのかーと思ったりしていた。

退院して、隣に住んでる女の子に早速「ねえねえ、オオミズアオって知ってる?すんごく綺麗で、なんだか天女の羽衣みたいなんだよ。」って言ったら、「それって何?見たことないし、聞いたこともない。」って言う。「あのね、蛾なの。」
「うえええぇ、蛾なんて気持ち悪いぃ。」とぬかした。あっ、違う、言った。
なんだこいつは。見たことも聞いたこともないものを、蛾っていうだけで、それもたった4−5年しか生きてなくて、それなりの引き出ししか持ってないし、蛾と蝶の違いなんて考えたこともないくせに、蛾=気持ち悪い と即答するなんて、なんてやつだ。幼稚園に何回か一緒に登園したことがあるくらいの浅い関係だとはいえ、知り合いが「綺麗なんだよ。」って夢にうなされたように話してるのに(それも一応死の淵から生還して)、蛾って聞いただけでそれはないだろ。それとも今までの短い人生の中で、蛾が君に何か悪さでもしたのか?
「蝶々は綺麗だから好きだけど、蛾は気持ち悪いから嫌ーい。」うわっなんだそれ。じゃあ、蝶が口の中から細っこい管を丸めたり伸ばしたりして、ちゅーちゅーしてる姿も見たことあるんだな。結構グロいぞ。おまけに死体とかう◯こなんかもちゅーちゅーするんだぞ。って書いてあったぞ。どうだ。
見てから言え、それから判断しろ。見たことも聞いたこともないくせに、嫌いとか言うなー。
もちろん、その後、隣の女の子と一緒に登園する機会は訪れなかった。

その日から、私はオオミズアオの応援隊長となった。実は本物は一度も見たことがない。周りの人に話すと、夏の夜にちょっとした山とか田舎に行くと結構いっぱいいるよ。とか聞かされる。でも、なんだか、会いたいようで会いたくないのだ。
変な考え方だけど、もう少し残しておきたいっていうか、うまく言えないけど、まだいいやっていう感じ。

うちのニケ。インダスターで撮ってみた。

高校生の時、歴史の教科書の裏表紙の年表に載っていた、ちっこい写真のサモトラケのニケを見つけた時、不完全なその姿で、それでもなお強く前に進もうとする造形が、パンチを喰らったように心の中に入ってきた。卒業したら、とりあえずすぐ見に行こう!と決めてルーブルに。階段を登り切ったところに、思ったより大きな本物の堂々たる姿が見えた時、ワクワクの予想を遥かに超えて圧倒され、ずーっとずーっと眺め回していた。よく言われるが、その後見たモナリザの、思ったよりちっこいのに何故か存在感があるのにも驚いたけど。
でもニケを見た後、何故か一抹の寂しさを覚えたのも事実で、その気持ちがどこからくるのかはっきりとはわからなかった。それは今もうまく言えないでいる。

生きてくると経験したことない事の方が減ってくる気がする。死ぬまでにしたい100の事みたいな話も聞くけれど、結構、色々手を出してきた方なので、今、100個あげるのはちょっと難しい気もする。読みたい本とか映画とかそういう事だったら時間が許す限り楽しめるのかもしれないけれど、行きたいところも既に100個は難しいかもしれないし。もしかすると、もっともっと年上の先輩方に言わせると、「なんだよ この青二才が。」って感じかもしれないけれど。

だから実物のオオミズアオに会うのは、なんだか残しておきたい聖域なのかもしれない。おまけに、遠くの国に行かなくても会えるらしいこともわかってるし、その身近さも、逆にそういう気分にさせるのかもしれない。

うまく言えないけれど、白い病室で大人にばかり囲まれて、毎日毎日、人間観察しながら子供のくせに眠れない夜を過ごしていた頃、消灯の時間が来ても、こっそりどうにかして本を読もうとしていた。いつも来てくれる看護師さんはちっちゃい読書灯をつけることを見逃してくれた。本当はいけないんだろうけど。ありがとう。
図鑑の中に閉じ込められた、儚げな水色の羽をもつオオミズアオ。毎日訪れる病院特有の少しだけ死の香りを含んだ静かな夜、ほの暗い部屋の中でちっちゃな読書灯が照らし出すその姿は、何も食べず、ひと月も生きられないというのに、凛として美しく強く、誰にも何にも媚びていないように見えた。
かっこいい、そして綺麗だ。

図鑑の中のオオミズアオ。そこにいる以上死ぬことのない月の女神は、どれだけ時が流れても密やかにここにいる。



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