海外生活で思っていたこと。
今回のテーマは、数年前に東南アジアに住んでいたときに感じていたことについてです。
コロナ禍での入国。
コロナの真っ只中、私は目標であった海外で働くチャンスを得て東南アジアの某国へと旅立ちました。それまでその国には行ったことがなく、事前情報は会社側から入ってくるものとインターネットで調べたもののみという状態で成田空港へと向かいました。出国は比較的簡単だったものの、コロナ禍で入国審査には時間が掛かり、なんとか入国。しかし、その後は、すぐに防護服を着せられてチャーターバスで隔離先のホテルへと運ばれました。時期が悪く私は、その後、1ヶ月間ホテルに隔離されたのですが、その中で不思議な感覚を覚えました。
ホテル隔離で覚えた不思議な感覚。
それは、果たしてここは私が来る予定だった国なのかということです。窓から見える風景や届けられる料理は事前に得ていた東南アジアの雰囲気そのものですし、会社のスタッフとも連絡を取っていましたし、何より指定されたその国行きの飛行機に乗り、パスポートにもその国のスタンプが押されているので、ちゃんと到着していることに間違いはありません。
しかし、本当にその国に到着したと言える確証みたいなものが自分の中で明確に得られずに、どこか不思議な感覚を持ったまま隔離の1ヶ月を過ごしました。
今も消えない不思議な感覚
その後、1年間の生活の中で、現地の人と親しくなり、現地の料理を食べて、現地の文化の中で生活をした訳ですが、その不思議な感覚は心の中に残り続けていました。僕がその国で暮らしていたことは事実ですが、それが本当にそうであったと証明する方法はありません。パスポートにスタンプはありますし、現地の友人もいます。しかし、もし、僕が乗った飛行が偽物で、空港から街まで実は全てがフィックションだとしたら・・・。
そんな妄想が時々頭を過ぎります。
真実は自分自身の中にある。
私が好きな映画『トゥルーマン・ショー』は生まれから一切の生活全てを全米に配信され続けて来た男性、トゥルーマンが主人公で、彼は配信されているとも知らずに日々の生活を送り続けます。最終的にトゥルーマンは、自分の暮らしがフィックションであることに気が付き、自分の暮らす島から外の世界へと旅立っていきましたが、もし、気が付かなければ、彼はそのまま生涯を終えていたことでしょう。
トゥルーマンの話は、それこそがフィックションですが、実、我々の生活の中には、自分自身で決めたと思っていたり、偶然の産物だと思っていることの中にも、実は他者の意図よって導かれた結果が含まれていることもあるのではないでしょうか。そんなことを考えていると、世の中の万事が信用できなくなりますが、今まで生きてきた中で自分が感じた感覚、考えている思考は、どのような積み重ねの結果であれ、自分自身のものであることに間違いはないと思います。
ほぼ、妄想のような内容になりましたが、これからも自分の感覚を信じて生きていこうと思います。