推しは届かないからこそ尊い。
推しは尊い。愛生ちゃんがいるから毎日楽しく生きられるし、辛いことや嫌なことがあっても愛生ちゃんに会うために頑張れるし、本当に危険な状態になったも愛生ちゃんを推し続けるために自分の命を守る行動が取れる。愛生ちゃんがいるのといないのでは、551のある時・ない時の数倍の落差で人生の充実度が変わるように思います。
愛生ちゃんを推し出して早5年、ハロヲタとなって10年以上が経ちましたが、私にとってハロープロジェクトは尊い存在であり、神に近い神聖な存在です。では、なぜ10年以上も推し続けても尊いままなのでしょうか。
夢を叶えたサッカー少年。
子どもの頃、私の憧れの存在はサッカー選手でした。雑誌やテレビ、スタジアムでの彼らの姿に歓喜し、いつかあそこに近付きたい、自分も同じ舞台に立ちたいと思って日々のトレーニングに励んでいました。
月日は流れ社会人となった私は、そのスタートを憧れのプロサッカークラブで切ることが出来ました。選手にはなれませんでしたが、スタッフとしてJリーグの舞台に立つ夢が叶いました。そして、プロクラブでの仕事を通じて画面やスタンドの向こう側の存在であった対等に仕事することが出来ました。この事実を子どもの頃の私に伝えたなら、きっと大興奮することでしょう。サッカーを夢見た少年は、遂に夢を現実にしたのです。
夢の向こう側にある現実。
ここからは、実際に夢を叶えて現実になった先のお話しです。
現実のサッカー界の仕事はとても大変なものでしたが、同時にやり甲斐のあるものでもありました。試合前練習でのボール拾いやピッチ上でのサポート、試合後のサポーターへの挨拶、関係者席からの試合観戦、行政や企業への表敬訪問、メディア出演などなど、普通では出来ない経験の数々。そして、一流の選手や指導者のトレーニングを日々間近で見学し、指導理論やプロとしての心得、一流のあり方を体感し、サッカー人としてはもちろん、人として多くのことを学び感じることが出来ました。
一方で、毎日目にすると言うことはそれが普通なり、今までJリーグの試合や日本代表の試合をみても、憧れや非日常感は消えてしまいました。また、遠くで見ると美しい富士山も、登ってみたらゴミが落ちているように、中にいれば綺麗ではない嫌な部分も沢山見えてきます。
夢を叶えた結果、それは現実となり輝きは消え、曇った部分がよく見えるようになり、その世界にときめくことは無くなってしまったのです。
なぜ推しは尊いのか。
これまで尊かったサッカー界が現実のなり、私にとっては日常の風景の一部となり、輝きは消えてしまいました。もちろん、今のサッカーの楽しさに魅せられているからこそ関わり続けている訳ですが、そこには尊さやキラキラ感、日常を忘れさせてくれる魔法はもうありません。私に魔法をかけてくれるのは、ハロープロジェクトであり、山﨑愛生ちゃんだけなのです。
では、なぜ推しは尊いのか。それは、絶対に手が届かない存在だからではないでしょうか。
愛生ちゃんのご家族にとって、愛生ちゃんは家族の一員であり、ケンカすることもあれば、嫌な所を目にすることも沢山あるでしょう。ご家族にとってステージで輝く愛生ちゃんは誇らしい存在であると同時に、家族である以上、怪我や疲労の心配、場合によってはこの後のスケジュールを考えたりしながらステージを目にしているのではないでしょうか。例えモーニング娘。として武道館に立っていたとしても、見守る気持ちの根幹は少年団の保護者と同じ感覚だと思います。
一方で我々ヲタクは愛生ちゃんの家での姿やッステージ裏での姿を知ることは出来ません。だからステージを見てもその姿から愛生ちゃんの日常が頭に過ぎることはなく、ただ純粋にパフォーマンスに心を砕くことが出来るのです。つまり、絶対に超えられない一線の向こう側にいる存在だからこそ、尊く輝き続けてくれているのです。
推しとの超えてはいけない一線
『宗教でにおいて神様が特別な存在でいられるのは、絶対に手が届かないからである』とある本で目にした言葉です。
これは、推しにも同じことが言えます。ただ、推しは生きているので何かの拍子やそうなるための努力を続ければ、手が届くこともあり得ます。しかし、私にとってのサッカーがそうであるように実際に手が届けば、そこにあるのは普通の日常であり、一人の人間やイチ組織でしかなく、特別はものはありません。それは、神に触れると起こると言われる祟りの一種とも言い換えることが出来るかも知れません。
超えられない、手が届かないからこそ尊く美しい。推しとは私にとって、神様と同じであり神聖で手が届いてはならないモノなのです。
これからも愛生ちゃんを崇拝し、ハロヲタしての人生を楽しんでいきます。