元気なまま、 ある日突然…
現代社会では長生きが美徳とされ、家族や社会全体が高齢者に対して敬意を払い、彼らの寿命をできるだけ延ばそうとする文化が根強くありますが、それ自体が一種の洗脳によって生じていると感じることがあります。
私がお世話になった温泉(断食)道場の先生は、「私は74歳で逝く」と言って、自分の生と死を能動的に選ぶという意志を表していました。
最初に死に方を設定すれば、そこまでどう生きるのか、何を優先するのか、自分と向き合えるようになり、充実した生を生きられると、先生が言っていたのを思い出しました。
親が長生きすることを望む子どもの気持ちは、親の幸せや健康を願うからなのでしょうか?
余計な願いかもしれませんよね。
おかげで、弱りに弱った親たちは無駄に苦しみを長引かせているだろうと、私の知っている医師は危惧しています。
健康で長生きしてくれたら良いのですが、そんな親は少数です。
また、親が自由に生きて、満足したときに死を迎えることを望んではみても、多くの親たちにはそのように満足する生き方が出来ないのも事実。
一般論でも、医療に関わると確実に寿命が短くなるというのが常識のようです。
私の親族の奥さん、会話もできず寝たきりだったのですが、病院にいたらすぐに死んでしまうから、家に連れて帰り、本人の生命力のみで8年間生き延びたと言っていました。
現代の全てが人工的になってしまったと、何十年も前から囁かれてきましたが、天候も、人命も、何もかもが人工的だとしたら、自然な在り方とは一体どういうものだろうかと、非常に興味深いです。
「医者は治さないけれど、殺さない技術で人命を管理している」という話は、納得ですね。
何歳で死ぬと決められなくても、「介護される前に死んでやる」、「元気なままある日突然死んでやる」と決意することで、積極的に自分を生きるだろうし、自ずと死ぬ時も決まるでしょう。