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日航機123便墜落事故(事件)⑱〜ワタナベケンタロウ動画、執念の発掘。あの日、炎上墜落する123便を目撃していた機があったという当時の記事より考えたこと

今回も「ワタナベケンタロウ動画」より個人的に特にインスパイアされたものを(今後も取り上げさせていただく所存)。

今回は第99回分(2023年1月7日)より。

ワタナベ氏とともに123便事故(事件)の真相について徹底追求を続ける小幡氏。彼が探し出した当時の貴重な記事の数々の中で、自分がとりわけ気になったのがコレ。

123便事故関連の話でC-130輸送機と聞いて真っ先に想起するのは、やはり、マイケル・アントヌッチ氏が乗っていた機だろう。

1985年当時、彼は在日米空軍の一員として従事(当時は中尉)。8月12日のあの時間帯に大島近辺上空をC-130輸送機の乗員として飛行しており、123便のインシデント後の18時30分頃から、同機、管制、横田基地らの無線のやりとりを聞くことに。

123便墜落後は、横田基地の命令により墜落現場上空まで行っており、位置や状況を確認。事故後早々に現場の位置がわかっていた事実が公表された際は(事故から10年後の1995年にアメリカの雑誌で告白。なお、米軍が救助活動に至らなかった経緯は彼の証言記事を参照のこと)、事故に関心を寄せる者の間では相当な衝撃でもって受け入れられることとなった。

123便とC-130といえば、その関係性が一番に挙げられるはずだが、実に、アントヌッチ機とは別に「123便が炎上しながら墜落する様を目撃していた」機が存在していたとは!

これはどういうことなのか。気になる点を挙げると、
①そのC-130は元々どこを飛んでいたものなのか。横田基地から緊急発進したものなのか
➁ワタナベ氏も指摘するように、事故調査委員会の報告書にこれに関する記載はない
③アントヌッチ証言にその機は出てこない
④アントヌッチ氏によれば、横田基地にて上官から「今日のことは絶対にマスコミには話すな」と言われた由。軍として当然だろう(例の究極の陰謀論など深読みは抜きで)。間違いなく目撃機の乗員も釘を刺されたはずだが、サンケイ新聞(翌日の!)に話したのはいったい誰? 逆にサンケイ新聞は誰から聞いた?
⑤上野村の住人、子供達が目撃したいくつかの飛行機の中に、そのC-130は含まれているのか?

サンケイ新聞は具体的な機種、位置情報を記しており、デタラメな飛ばし記事とはとても思えない(繰り返すが、事故翌日8月13日の紙面なのだ)。

アントヌッチ氏の機とは別の、もう1機のC-130。その機はおそらく、いや、確実に存在していたのだ。

くだんのアントヌッチ氏の証言にこんな内容がある。

「私が日本に戻ってきた(筆者注.任務の沖縄から横田基地へ戻った)頃には、この話(筆者注.果敢に捜索を試みようとした手柄話?)は立ち消えになっていた。我々乗員たちは、ある連絡(承諾)を受け取ったが、我々の期待とはずいぶんかけ離れていた。我々は日本の新聞に残骸の写真を売るための空軍特別調査活動の任務にあったということにされた。しかし、この調査は当然のことながらあっという間に終わった。なぜならフィルムを持っているものなど誰一人いなかったし、写真を撮れるような明かりも十分なかったのだから。そのうえマスコミは、我々がそこを飛んでいたことなど誰も知らないのだから、報道されるはずもなかった」

自分は以前から「我々は日本の新聞に残骸の写真を売るための空軍特別調査活動の任務にあったということにされた」の箇所が、あまりに唐突な印象で(撮影をしていないのに)意味不明に感じていたのだが、なるほど、仮に墜落を目撃していた機が撮影を敢行していたら……?   

その写真はアントヌッチ搭乗機が撮ったものとして提出すれば飛行の大義が成り立つし、目撃機の存在もうやむやにできるという(サンケイ新聞の記事は小さく、時間が経てば必然埋もれる)。

米軍がなぜそんな面倒な過程を踏まねばならなかったかはよくわからないが、アントヌッチ機の飛行目的がウソの事情に変えられたことを踏まえると、やはり、そこにはなんらかの闇が隠されていると見て間違いなさそうだ。





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