日航123便墜落事故(事件)・第76回〜“政界のプリンス”加藤紘一氏は、なぜ、39年前のあの時、防衛庁長官を留任続投した(させられた)のか?
昭和時代、内閣における防衛庁長官というポストは、半年とか1年ぐらいで交代するのが常だった。内閣改造や首班指名選挙後に人が替わるのは、ごくごくフツーの流れだったと言っていい。
思うに、いや、誰でもわかることだが、それほど重要な役職ではなかったのだろう。省ならぬ庁であり、大臣ならぬ長官。大蔵大臣や外務大臣とは格が違う。未来有望な若手政治家が最初期の手始めに務める(務めさせられる)定番のポストだった。
そんな防衛庁長官という役職を、政界のプリンスにして自民党左派の要だった加藤紘一氏は、途中の内閣改造を経て、約1年9か月もの間務めた。
言わずもがな、加藤氏が務めていた時期は、日航123便墜落事故が起こった前後の時期。任命した首相は中曽根康弘氏だ。
事故後4か月後の年末に内閣改造(第2次中曽根内閣)がおこなわれ、加藤氏は防衛庁長官を留任する。
彼が留任したワケはなんだったのか。若さを生かし(事故のときは45歳)、就任時から相当精力的に全国の基地や駐屯地を訪れていたようで、その功績を買われてのものだったのか。一方で、123便事故を踏まえて考えると、自然に否応なしに陰謀論めいたものが頭に浮かんでくる──。
内実がいろいろ複雑で、庁内的に“完全ワケあり”の事故(事件)ゆえ、後任への引継ぎ作業を回避した、いや、回避せざるえなかったのではないか。そんなことを考えてしまう。
加藤氏の後任の防衛庁長官は、栗原祐幸氏。二度目の就任であり、中曽根氏とは派閥は異なりながらウマが合った模様(年齢は中曽根氏より2歳下)。wikiをみると、日本の防衛増強に尽力したことが窺われる。
時系列としては、例の事故調査報告書が世に出てから半年後に防衛庁長官を退任している(在任期間は1年3か月)。
実は、防衛庁長官を加藤氏以上に長く務めた人がいる。1974年12月から2年間務めた坂田道太氏だ。彼の在任中に世間を、いや、世界を驚愕させた「ミグ25函館不時着事件(ベレンコ中尉亡命事件」が起こっている(事件の9日後に三木内閣改造、坂田氏は留任)。
唐突な結論に感じられるかもしれないが、案外、事故の実態を知悉する人間として、真相を一番重く受けとめ墓場まで持っていったのは、加藤氏だったのではないか。
なお、余談の余談ながら、現・防衛大臣の木原稔氏は日本航空出身で、誕生日は1969年8月12日(筆者と同い年)。高1の誕生日に、123便墜落事故が起こったことになる。