1982年リリース。デュラン・デュランの2ndアルバムにして、屈指の名盤『リオ』について語ろう
芸能評論家(『週刊大衆』『EXweb』『ブッチNEWS』etc)・三橋りの リリースされたのが40年前の1982年5月10日。先だって織田氏が取材した早見優さんのデビュー日から19日後という
ライター・織田祐二 うむ。そういう時系列になるのか(笑)
三橋 当時は当然、洋楽はまだ聴いてなかったという?
織田 当然聴いてなかった。自分が本格的に洋楽に目覚めたのが中2の年の暮れ、1983年の12月からだから。デュラン・デュランで最初に聴いた曲は『ユニオン・オブ・ザ・スネイク』だったかな。3rdアルバム『セブン・アンド・ザ・ラグド・タイガー』を買って、まあ、ハマりましたね
三橋 順番的には3rdを聴いて、そのあと、2ndの『リオ』なんですね
織田 そういうことになる。確か、隣のクラスで、特に仲がいいってわけじゃなかったんだけど、洋楽好きの男がいて「いらないから売りたい」と。確か、2000円で買った(笑)
三橋 聴いた感想は?
織田 『セブン・アンド~』と比べて、ギターの音が前面に出ていてロックしているなあと。そうそう、シングルの『ハングリー・ライク・ザ・ウルフ』はすでに持っていたのね。これも誰かから安値で買ったんだけど(笑)。で、『ハングリー・ライク・ザ・ウルフ』は自分の中でいまいちピンと来てなかったんだけど、アルバムで通して聴いたらまったく印象が変わって。シングル盤とは音圧も明らかに異なってて、迫力もあって、あれ、いい曲じゃんと。1曲目の『リオ』から『マイ・オウン・ウェイ』、『悪夢の中の孤独』、『ハングリー~』と続く曲順も最高だった。『セブン・アンド~』にしろ、カルチャー・クラブの『カラー・バイ・ナンバーズ』なんかでも、聴いてて途中微妙にダレる部分もあったんだけど、『リオ』はそれがなくて。曲のよさ、勢いという意味で圧倒圧巻の作りで、その感想は五十路になったいまも変わっていない
三橋 1stアルバムが予想以上に成功して、シングルもヒットを連発して、長期ツアーに入った分、『リオ』の制作時間は相当限られたものになったと言われていますね。そういう意味で、集中して一気に仕上げた結果、傑作につながったというか
織田 そうだと思う。そういう点ではツェッペリンの2ndにも通ずるというね
三橋 ああ、あのアルバムも時間ない中で作られたんですよね。『リオ』は収録9曲中4曲がシングル曲ですね
織田 その後に出たミニ・アルバム『カーニバル』では『ホールド・バック・ザ・レイン』や『ニュー・レリジョン』の別ヴァージョンが収録されたけど、それらもシングル・カットされておかしくない良い曲だった。個人的に『ラストチャンス・オン・ザ・ステアウェイ』が一番のお気に入りなんだけど
三橋 曲順的に地味に配置された感もありますが、確かに聴きどころいっぱいの佳曲
織田 いや、名曲ですよ。楽器のバランスもいいし、泣きのコーラスもいい。あの間奏を聴くたびに「ノエビア」のコマーシャルが思い浮かぶんだけど、使われてはいないんだよね
三橋 アルバムのジャケットがそれ風のイラストでいろいろ語られますが、使われてはいないようです
織田 当時は『マイ・オウン・ウェイ』が好きでね。周りの友達は「そんなにいいか?」という感じだったけど(苦笑)。サビの叙情的なキーボードの音にガツンとやられた
三橋 いくつかヴァージョン違いあるはずですが、アルバム・ヴァージョンが一番いい
織田 そう。ナイト・ヴァージョン? だったかはテンポを速めた分、サビでの粘っこさの美しさがなくて。イントロも、出来損ないのカジャ・グーグーのようで……
三橋 ああ、ああ
織田 『マイ・オウン・ウェイ』はよかったなあ。中学の卒業文集の一言メッセージでは、この曲のサビの部分の「僕には僕の道がある 自分の道ぐらい自分で見つけるさ」を引用させてもらったほど
三橋 青くて恥ずかしい思い出のような(苦笑)。ちなみに織田氏が卒業した中学は、のちに『BOMB』で表紙を務めたアイドルの平田裕香や、人気女性芸人のバービーを輩出した学校なんですよね
織田 まあ、ね。それはいいとして(苦笑)、スペース的に長すぎたらしく、出来上がった文集を見たら「僕には僕の道がある 自分の道ぐらい見つけるさ」と短縮されていたんだった(笑)
三橋 その頃から編集者の指定の文字数をオーバーして書く癖があったんですね(笑)。『リオ』に話を戻すと、全米の最高位が6位で、『セブン・アンド~』の8位より上。チャート的にアメリカで一番成功したアルバムなんですよね
織田 なるほど。やはりアメリカ人はわかってるというね
三橋 そういう結論ですか(笑)。ただ、アメリカでは失敗に終わった『マイ・オウン・ウェイ』や、織田氏の好きな『ラストチャンス~』のよさをどこまでわかってるかは微妙な感も……
織田 まあ、確かに。ちなみにスケールのデカいバラード・ナンバー『セイヴ・ア・プレイヤー』は1982年にシングル・カットしたときはアメリカでは発売されず、1985年始め、ライヴ・アルバム『アリーナ』からのシングル・カットという形で大ヒットに至ったというね
三橋 『セイヴ・ア・プレイヤー』の叙情性たっぷりの世界観では終わらずに、もう一発バラードの『ザ・ショーファー』を聴かせて終わらせるところも本アルバムの聴きどころですよね
織田 そう思う。いや、発売から40年を経てもなんら色褪せない、燦然と輝く名盤ですよ