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エッセイ:4日目 - 「海沿いの道で出会った沈黙」
朝、車に乗り込んだ瞬間、今日は少し違う道を選ぼうと決めた。いつものルートは気がつけばただの作業になりつつある。信号を数えて、渋滞を避けて、車線変更を繰り返す。ただそれだけの繰り返しだ。それなら、思い切って海沿いの道を通ってみるのもいいかもしれない。そんな気分だった。
海に向かう道は狭いけれど、左右に広がる景色が心を軽くする。オレンジ色の朝日が水平線を染めていて、その美しさに思わずアクセルを緩めた。窓を少しだけ開けると、潮の匂いが車内に入り込んできた。それは生きている空気というか、どこか懐かしさを感じさせる匂いだった。沖縄の風はどこか特別だ。ただ心地いいだけじゃなく、そこに土地の記憶が染み込んでいるような感覚がある。
そんなことを考えていたら、ふと視界に一人の老人が入ってきた。道路脇のベンチに座り、じっと海を見つめている。帽子を深く被り、背中が少し丸くなっている。何をしているのか、何を見ているのか、その後ろ姿だけで無数の物語を想像させる。思わず減速して、その光景を目に焼き付けた。
老人の隣には、小さな袋が置かれていて、その中からパンの端切れのようなものが覗いている。彼が鳩やカモメに餌をやっているのだろうか。それとも、それはただの買い物袋で、帰り道の休憩中なのだろうか。どちらにしても、彼がそこに座る理由を知りたいと思った。でも、もちろん車を降りて話しかける勇気はなかった。ただ、彼の沈黙と海の音が一瞬車内に流れ込んでくるような感覚がして、胸がざわついた。
会社に着いた後も、彼の後ろ姿が頭から離れなかった。同僚に「今日、海沿いで印象的な老人を見た」と話すと、「それ、きっと自分の秘密の時間なんじゃない?」と言われた。なるほどと思った。誰にも邪魔されない場所、誰にも聞かれない時間。それを持っている人は、どこか強い。彼の静けさには、そんな強さがあったのかもしれない。
帰り道、朝と同じ道を通ることにした。もしかしたら、また彼がいるのではないかと思ったのだ。しかし、ベンチは空っぽで、代わりに海風だけが通り抜けていた。少しだけ残念に思ったけれど、その静けさが心地よくもあった。彼のような沈黙を、自分も持てるようになりたいと思った。
家に帰り、妻にその話をすると、「それ、たぶんあんたも老後そうなってるよ」と笑われた。でも、それは悪い未来ではない気がした。自分だけの時間と場所を持ち、その中で海を見つめる。それはきっと豊かなことだ。
明日もまた海沿いの道を通るつもりだ。彼がいるかどうかはわからない。でも、その静けさの中で、今日とは違う何かに出会える気がする。それが何であれ、今の自分にはそれが必要なのだと感じた。
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