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娘の帰った後に想うこと

娘が帰った後
娘の、「これから」を考えてしまう。

(ひとりで寂しくはないのだろうか)
(今のままでこの先を過ごすのだろうか)

そんな答えのない問いを繰り返してしまう。

(順序としては)いずれわたしが先にいくのだから
考えても仕方がないのだと知りつつ
これから行く末を案じてしまう。

顔も、性格も、父親にそっくりなのだとずっと思っていた娘の
実は一番自分に似ていたことに
ここ最近、ようやく気がついたのだった。

見えなかったものは、見ようとしなかったもので。
表面的なものだけに目をやり、内側から目を背けていたのだということ。

「育てる」ということは、自分自身を認めて受け入れていくことなのかもしれない。
それゆえに、ひどく難しいのではないだろうか。
そんなふうに考えている。


こころ深く
折り合いをつけなければ
ひとつひとつ
昔のわたしを
呼び戻して

親と同じことはしまい(しない)。
自分と同じ想いはさせまい。
そうずっと想ってきたのだけれど。

結局は同じ想いをさせてしまった。
そのことへの申し訳なささが、どうしても残る。

小さかった娘の
育ちゆく過程を
思い出しみれば
こんな親でと
しみじみ想う


もっとよい親でもよかったのではないか。
わたしでなくても。どこか別の。
なぜここに、と
産まれ来てくれた嬉しさに相反する想いは、なぜ今なのだろうと思う。

さて、また深みにはまってしまった。
娘への想いは一旦ここに置いて、少しずつ手放せるようにしていこうと思う。

難しいんだけどね。

今日はこれから
もうひとりの娘が、メイクを習いたいと言い始めたので、知り合いの家に行くことになっている。
そこにいる重度障害を持つ娘さんと、その間わたしは、あたたかな時間を過ごすのだろう。

ではでは、また。

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