荒城の月

朝早くから目覚めてはいたものの
布団から出られず目を閉じる。

次に目を開けると
2時間ほど時間が過ぎていた。

服を着替えて
洗濯物を集め、洗濯機をまわす。
その間に
電子ケトルに水を入れて、スイッチを入れる。
湧いたばかりのお湯を少し冷ましてから、朝の薬を飲む。

今回の漢方薬はさほど苦くはない。
なので飲むのも、前ほど苦にはならない。

よく夢を見ることと落ち着かないことが時々あること。
ここひと月、酷い便秘があること。

それらの症状に合わせて2つの漢方薬を出してもらった。

便秘の方は1日すると改善されたけれど
夢を見ることはまだ多い。

内容を覚えていることもよくあるけれど、何か夢を見ていたという、ぼんやりしたものが多い。

女性が女性で失くなってしまうころに
悲しい夢を見るのだと
昔、祖母の詩吟への送り迎えをしていた時に知り合った方が
悲しそうな、寂しそうな
それでいて何かを躊躇うような
そんな表情をしながら話してくれたことがあった。

当時、まだ二十代前半だった私に
わかるはずもなく
それでもなぜか心の奥に
ずっと引っかかっていた言葉だった。

そのことを少し前くらいから
不思議と思い出すことが増えた。

その方は、六十を少しばかり過ぎており
はるか遠い年齢に思われていたその歳が
今や近くなってきている。
だからなのかしらね。


祖母を待つ間
部屋の隅でよく聴いていた歌が
この「荒城の月」だった。

小さな頃から、祖母の歌うこの曲を
聴くとはなしに聴いて育った。

よく通る高い声。
今はもう聴くことのできない声。
けれど、まだ
こころのどこかで憶えている声。

朗々と歌う時の
手の動きや口の動き。
歌った後の照れくささを
剽げることで隠す癖。

ちりめん素材のものが好きで
いつもそのかっぽう着を着ていたこと。

亡くなる数年前からは
今でいう認知症と子宮ガンを患っていたこと。

(当時は、そんな症状を呈する方を総じてボケ老人と呼んでいた時代だった。
何気なく使う言葉が酷く当事者側を傷つけることを私はその頃にようやく学んだ。)

祖母が亡くなった日のことを
今もまだ憶えている。
八月の
雨と雷の酷く降る日だった。
ちょうど大きな雷が鳴った後、耳慣れない音が聞こえた。
雷が落ちて停電していたことで電話の音がいつもと違っていたのだ。
そのことに気がつくのに、少し時間がかかった。
病院に着くと、怒り心頭の様子の医師から
「会いに来ていたか?」と
責められるように押し殺した声で聞かれて
「いいえ」としか
答えることができなかった。
頻繁にここに来られなかった理由は幾つかある。

けれど…もう遅いのだ。

そこから
祖母を連れて帰るまでの時間はよく憶えていない。
文字通り真っ白な空白の時間だったように思う。
運転していたのは私だったのか
それともタクシーだったのか
それすらも記憶にはないけれど
兄が抱くようにして
膝の上に祖母の頭を乗せていたことは憶えている。

切り取られた写真のように
その場面が今も脳裏に焼きついている。

亡くなった後の
幾つかのことをひとつずつ終えていく。
終えるたび忘れるのではなく
なお一層のこと思い出していたように想う。
泣くことが不思議となかったのは
どこかでずっと覚悟していたからなのだと想っていた。

けれど
ある日

夢の中に祖母が立った。

「世話になったね」
「すまざあったね」
(すまなかったねの意)

いつものように話す祖母に

(なんにもしてない。私はなんにもしてない。)

首を激しく振りながら
叫ぶように言ったのだけれど
喉の奥で詰まってしまい
声になることはなかった。

その時に
目にいっぱい涙をためていたらしく、
そのことに気がついたのは、目が覚めてからだった。

それからしばらくの間は
涙が止まらなかった。

祖母が亡くなったことを
ようやく受け止めたのだと想う。

何故かそんなことを
朝から思い出していた。

もう少ししたら買い物に行ってこよう。

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