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日記を書いて、日常を愛する

今年6月ごろから、5年日記を始め、12月現在も続いている。
基本は1~2日分書いてそのまま閉じてしまうけど、たまに見返すと面白い。つい3か月前のことでも、「そうそう、そんなことあった!」と思う。
「そんなこと」はそんなに大きなことではなくて、何気ない日常のワンシーン。

例えば…

・見ていたYouTubeのチャンネル、NETFLIXの映画、聞いていたラジオ
・食べたもの、飲んだもの
・読んでいる本
・子どもの成長記録
・何時に起きたとか寝たとか
・誰とLINEしているか
・どんな物を買ったり、どんな贈り物が届いたりしたか

どれも何気ないのだけど、気づいたら、何日前の出来事かわからなくなって、次第に懐かしいことになっていって、過去になっていく。

今年は身内が二人亡くなって、命や生き方について考える機会が多かった。
「何のために生きるか」というと、目標とか夢とか、大きなことが浮かんでしまうけど、
今は、たまに、二人が生きていた日常を、もっと、読み返せる形で記録しておけばよかったな、と思うことがある。

人に限らず、気づいたらもう、食べなくなったもの、行かなくなった場所、買わなくなった商品など、人はどこかで生活をアップデートしていく。


この1年、
妊娠してから、ウエストがキュッとなっている服は着られなくなった。
産休に入ってから、職場周辺のいつもの風景はめっきり見かけなくなったし、毎朝乗っていた電車の時間も思い出せなくなった。
子どもを産んでからは、通い尽くしていた産院にめっきり行かなくなった。
夜の時間帯の外出のハードルが上がった。

代わりに、ママ友ができた。
飲食店やホテルは、子連れだと面倒なこともあり、人の家に行ったり、泊めてもらったりするハードルが下がった。
子育て支援施設で、その場にいる人とフランクに話せるようになった。
子ども服を選ぶ楽しみが増えた。
あまり買わなかったバナナが家に常備されるようになった。
前までは正直ちょっとうるさいなと感じていた知らない人の子どもを、心の底から可愛いと思うことも出てきた。
(…思えば子ども関連の変化ばかりだ!)

その日、その日の変化はそんなにないが、日常は移り変わっていく。
日常が変わった後に、その尊さに気づく。

俵万智さんの歌に、
「最後とは知らぬ最後が過ぎてゆく その連続と思う子育て」
という歌があるが、
子育てに限らず、最後だとは思っていなかった最後が、たくさんある。

日記を書くのが面倒な日もあるけど、
日記を書くという行為は、今日の私を形づくってくれた様々な瞬間を、慈しむ行為のように感じる。

忙しくても、自分への大事なご自愛の方法として、今後も続けていきたい。

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