仕事は好きじゃないけど、アイデンティティも失いたくない
仕事が好きじゃないという感覚、できるならしたくないという感覚が社会に出て5年以上経ってなお残り続けている。
でも、嫌いに対して、ちゃんと考えたことがあったのかというと、
これまでに無かったようにも思う。
基本的に嫌いなことは避けていいものではないかと考えている。
運動が嫌いな人が無理に運動する必要もないし、ゲームが嫌いな人であれば、ゲームをしなければいい話。
けれど、こと仕事となるとそういうわけにはいかない。
仕事があるから、生き繋ぐことができるし、コミュニケーションだって取れる。
大人になってから思うけど、
誰かと初めて会った時、まず何から聞くか・聞かれるかと考えてみると、「仕事なにしてるんですか?」っていうのが多い。
仕事がその人のアイデンティティにもなれば、人と話す上での共通点にもなり得るもののように感じる。
仕事が嫌いって思っていても、いざ会話するとなれば、仕事なにしてるの?と聞いてしまう。
結婚が近づいてくれば、親から「お相手はどんなことしてるの?」と聞かれる。
「どんな趣味を持っているのか?」とか「どんな人間性なのか?」より「どんな仕事してる?」が先に来る。
仕事をしていないということは、大きな引け目に感じるから、仕事は好きじゃないけど、仕事はする。
「仕事していないんです」って堂々と言える自信なんてない。
仕事をしているということが、自分を守ってくれている部分もある。
「自分はまともな人間なんですよ」って言いたいだけという感じ。
仕事さえ好きになれたら、人生幸せなんじゃないかって気持ちもあるし、楽しそうに仕事を話をする人が羨ましい。
「仕事だから仕方ないよね」って笑える人がとても羨ましい。
僕の場合、もっと怨念じみたものに感じてしまう。
仕事の何がそこまで自分の心を引っ張ってしまうのか。
自分がやりたいかどうかに関わらず、やらされることに対する抵抗感?
成長を求められること?
生きていくためには、続けなくてはいけないという状況?
仕事において何も目指せていないから?
仕事のルール・こだわりを自分も遵守しなくてはいけないから?
失敗して怒られたくないから?
家族を築くため・守るためには辞めるわけにはいかないから?
何度プロジェクトが終わっても、延々と次がやってくるから?
あと30年以上続くから?
こうして並べてみると、凄く浅いところで止まってしまっているように思う。
ただ、並べたものが自分を縛っているものであるとは思う。
20代前半の頃だったら、期待もいっぱいあった。
仕事ができるようになる自分を想像して勉強もできたし、たくさんの人に話を聞きに行こうともした。
新しいことを知れれば今が何か変わる気がしたし、新しい人に会えれば自分の世界が変わるような気がしていた。
でも、一定経験してしまえば、そんなにコロッと人が変わるわけないことも分かってくるし、今を愚直に続けることが大切であることも分かった。
そう分かった時に落ち込んだ。
仕事に対して、同じ気持ちを持ち続け、縛りがあることを自覚しながら、前に進まなければいけないと分かってしまったから。
仕事が嫌いな理由とはまた別だけど、嫌いを感じているものに対して、愚直に前に進み続けるというのはしんどい。
こう考えていると、続けなければいけないということに、きっと苦しみを感じてる。
惰性で続けるということすら苦しい。
いや、惰性で続けるから苦しいのだろうか。
ここ最近思うことだけど、30歳も近くなって、仕事好きじゃない・やりたくないって随分子供な悩みであると感じる。
その上、怒られたくないという気持ちも抱えている。
子供みたいだなと思うけど、その悩みの解消の仕方も分からない。
自分ではなく、組織のことや会社のことを考えれば、そんなことなく進めるかもという話もある。
けれど、組織のことを考えるとはどういうことだろう。
経営者目線を持てってことだろうか。
それができたら、何だか大人っぽい感じはする。
自分のことだけではなく、組織や集団のための最適解を考えられる人は大人って感じする。
自分がやりたいことではないとしても、組織に最適であることであればするというのは、責任のある大人というイメージ。
自分とその像のギャップがとても苦しく感じる。
文字にしていったら、何かしらたどり着けることもあるかなと思ったけど、
やっぱり苦しみが取り切れない。
それに、ここまで来ると思うけど、苦しみがすっきり全てなくなって、歩けるようになるってこともないだろうなと思う。
何も解決してないけど、一旦ここで締めようと思う。
改めて、もう一度考えるための置石にする。