コンビニスイーツで贅沢したい
日常生活の中で我慢はしたくなく、贅沢はしたい。
豪華な料理を食べていたいし、旅行にも毎週行きたい。
やりたいことは挙げ出したらキリがない。
今パッと思いつくだけでも、高級寿司を食べたいし、熱海に旅行したいし、海外にも行きたい。
他にも書ききれないくらいたくさんある。
かと言って、挙げたものすべて出来るということでもない。
時間がなかったり、お金がなかったり、
何かしらの理由があって、結果として我慢することになる。
それを望んでいても、いなくても。
じゃあ、我慢は悪いことなんだろうか。
毎日本当に美味しいと思うモノを食べていたら、いつかは美味しいが普通になって、最初ほど美味しいを感じなくなるし、
はじめは新幹線に乗るだけではしゃげていても、気づけばただの移動手段に変わってしまう。
良くも悪くも人は慣れる。
特別だったものがただの日常に変わってしまう。
我慢もある程度はないと、自分の日常のコストを増やすだけになる。
それはそれで生きづらい。
そう考えてみると、我慢は悪いというだけではないのかもしれない。
じゃあどう贅沢をすればいいというのだろう。
少し別の角度から考えてみる。
すべてが無制限の世界には贅沢は存在しない。
(もしかすると、何もしない贅沢はあるかもしれないが)
何をやってもいいと言われたら、そこに贅沢は感じない。
どんなことをしてもいいのだから、すべてのことが普通に変わる。
特別なことは何ひとつない。
そう言われると、贅沢という気はしない。
しかし、日頃からダメだと言われてることが出来た時には、不思議な満足感がある。
深夜のラーメンがやたら美味しく感じたことはないだろうか。(昼も同じものを食べたはずなのに)
後悔するかもしれないのに、その時はすごく満足できる。
我慢があることで、普通であったモノが特別な一瞬に変わる。
その事実が贅沢だと認識させてくれることもある。
言い換えると、制約があるから、贅沢を感じられることになる。
ということは、贅沢を感じるためにも少々工夫が必要そうだ。
思いつく限りのことをやってしまうとそれは贅沢ではなく、ただの日常になってしまうし、
我慢しすぎてしまえば、満足いくことは行えない。
この微妙なバランスを保つのは難しいと思うけど、世の中にはすでにそのシステムが存在してる。
「自分にご褒美」というのは本当にバランスがいい。
普段は我慢して買わなかったり食べなかったりするのだけれど、何かがうまくいったから、何かを頑張ることが出来たから、自分にご褒美をあげようというのは何だかちょっといい気分だ。
それが仮にどんなに小さな贅沢でも、それは贅沢の形をしている。
ここまでの話だと、意図した我慢があっての贅沢という感じになってしまうが、ここで話したいのはそうではなくて、
知らぬ間に我慢をしていたことを知り、ちょっとだけ解放してもいいのかなという話がしたい。
生きていれば、相当な自由人じゃない限り何かしらの制約を抱えている。
人間関係のこともそうだし、健康面に気をつけることもそう。
自分にとって大切にしたいこともあれば、相手にとって大切にしたいこともある。
そんな制約入り乱れた場所で、人は器用に生きている。
基本的には制約には従わなければいけないけれど、今日くらいはちょっと破っていいかなっていうくらいの贅沢が実は心にしみ込んだりする。
年に一度の旅行より、コンビニスイーツの方がいいってことはなさそうだけど、
それでもコンビニスイーツは明日を生きる糧をくれる。
健康的に暮らすなら、ダイエットのことを気にするのなら、ケーキは控えた方がいい。
でも今日だけは、僕は私は頑張った。
だからちょっとくらいご褒美買ってもいいでしょう。
これで明日も頑張れるなら、その贅沢は必要だ。
制約は大事、守ったり従ったりするのが普通。
それを作ったのが自分だろうと、他の誰かだろうと。
でも本当にごくたまに
ちょっと破れるくらいの方が人は案外健康的なのかもしれない。