いつからか妄想しなくなった
思えばこの頃妄想をしていない。
昔は、窓に怪人を倒すヒーローとなっている自分を映していたものだ。
いつ頃からか、窓はただ景色を見るだけのものに変わってしまった。
今はもう、どうあがいても自分がヒーローになれないことを自覚している。
だから、自分がヒーローになっている姿は考えられない。
良く言えば、現実が見えていると捉えることもできるだろうか。
しかし、ヒーローになって周りに頼られる自分を妄想できていた時ほどのワクワク感はない。
殻を破ろうとしているはずなのに、自分の想像を飛び越えていくことはほとんどない。
悪い想定外はちょこちょこ起こっている気がするのだが、良い想定外はあまり記憶に残ってない。
子どもの頃を美化しすぎるわけでもないが、比較的に良い想定外も起こっていたのではないかと思う。
どこに遊びに行くにも、目新しいモノに溢れていて、どんなものでも楽しめていた。
そんな感覚のおかげもあって、もしかしたらもっと楽しいことが、もっと面白いことがあるんじゃないかって妄想も膨らんだ。
少なからず今よりは希望に溢れていただろう。
それが今やどうだろうか。
大抵のことは知ってしまっている。自分が見える範囲のコトは。
もちろん知らない世界はたくさんあるのだろうが、子どもの頃に感じていた知らないとは毛色が違う。
今、根底にある感情は、「まあそんなもんだ」という諦念に近いそれなのではないかと思う。
長く生きれば生きるほど、知っていることは増えていく。
それに伴い、自分の頭で予知できる範囲も広がっていく。
そうなると、昔は未知との遭遇で、なんだかとてつもないように思えていたものが、案外そうでもないかもと思い直す場面に出会う。
ある日を境に、妄想に妄想を重ねていた場所は、存在しえない場所であると、あるいは何の変哲もない場所であると気づく瞬間が訪れる。
そんなことを繰り返すうちに、今の現実を積み重ねることにいっぱいいっぱいで、今じゃ有り得ないことを妄想するのが馬鹿らしくなってしまった、のかもしれない。
妄想なんかしたところで、現実が変わるわけではないんだし、今できるやっていこう。
すごく合理的な考え方なんだと思う。
その上で、今思う。
もっと妄想に浸りたい。
もしこんなことが起こったら、自分はどうなってしまうんだろう。
僕がもしヒーローになれたなら、僕はどんな性格で、なんのために頑張ってて、みんなからどんな風に見られているのだろう。
もし、目の前に猫が現れて、急に別世界に行くことに連れていかれたら、どうなっちゃうんだろう。
どれもこれも他愛もない話なのだが、今いる世界を飛び越えていて、なんだか少しワクワクする。いやワクワクしたい。
妄想を人に聞いてもらうのはちょっと違うかもしれないけれど、自分の中だけでくらいなら現実じゃありえないことを考えていたってバチは当たらないだろう。
どうせ現実を生きているのだから、わざわざ想像しなくても勝手に向こうからやってきてくれる。
ならば、こちらから現実を迎えに行く必要もない。(現実に対して冷たすぎるだろうか。少しくらいは優しくしてあげる気概を持っておこう)
楽しみながら生きるため、見えている範囲からちょっと逸脱していたい。
妄想世界は誰にでも開かれた場所であるはずだ。
それに、妄想も案外捨てたものではなくて、たまに現実に遊びに来てくれたりする。
絶対起きるはずがないと思っていたことが突然目の前に現れることがあるから面白い。
「こんなこと起きるはずがない」よりも「もしかしたらこんなことが起こるかも?」の方が余地があって面白い気がしてくる。
大人になったからこそ、もう一度、妄想に浸っていたい。
もしかしたら、面白いことが転がり込んでくるかもしれない。