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我輩は父である。子供はまだない。27歳夏

何言ってんだこいつと思うかもしれないが、
話を聞いてもらいたい。

僕の理想の父親像について話をしたいのである。

子どもはおらず、彼女すらいない独身男が、こんな父親になりたいとただ書き連ねるだけの内容だ。
(どうか次に読むときには、彼女はできていてもらいたい)

さて、

そもそもなんでそんなことを考えるようになったのかという話だが、実は自分でもよく分かっていない。

公園で遊ぶ家族を見たりとか、結婚した友人の話を聞いたりとか、出産の話を聞いたりとか、なんだか色々な要素が絡み合っているように思う。

ひとつ思ったことは、自分はすでに子どもがいてもおかしくない年齢であるということである。

僕自身としては、ひとりで生きるだけでも考えることがたくさんあるのに、家族を持っている人がいるというのは、本当に驚きである。

今の自分からはまったく想像できない。

もちろん、なってしまえば出来ることもあるという話はあるが、それでは出来ないことも多い。

というか、なってから出来るって本当だろうか。
心配は尽きない。

そう考えると、今から家族を持ったことを考えた方がいいのではと思うわけである。
あれ、案外考え始めたきっかけ自体は分かっているのかもしれない。

書くと分かることもあるものである。


さて、本題に戻っていこうと思うが、
そもそも理想の父親とはなんだろうか。

誰から見るかで変わってしまうのが理想である。
その辺本当に厄介だ。

なので、視点を決めてしまいたい。

今回は子どもから見る、理想の父親像とする。
(機会があれば、別の視点からも考えてみたい)

とは言え、そう簡単にまとまるものでもなさそうなので、ゆっくりと話を進めていきたい。


親としては、当然子どもには勉強して色々なことを知ってほしい。

勉強といっても、テストで点を取ってほしいとかではなく、
土台を知ってほしいという話だ。

人の世が長く続けば続くほど、知らず知らずのうちに土台は高く積み上げられていくものである。

生活を支える政策や世の中を便利にしているITやサービス、自分の生活を支えるお金に関する話、すべての学びを支える義務教育。

言い始めるとキリがない。
今後も土台はどんどん複雑になっていくだろう。

それを使いこなしていかなければいけないのだ。

勉強することにより、土台をしっかりと理解する。
その理解があってこそ、これからの時代を生きるということなのではないかと思う。


これまでのは少し真面目路線。

それに加えて、色々な楽しみ方を知っておくということも必要になってくる。

今世の中にはたくさんのコンテンツが溢れかえっている。
探さずとも、なんだか知らないうちに楽しめてしまうのが現代だ。

しかし、誘われるがままに楽しまされてしまっては、時間もお金もどれだけあっても足りはしない。

よく分からないけど楽しいは、言ってしまえばカモである。

もちろんそういう楽しみ方もしていかないと、幅が広がらないことは確かなのだが。

カモにならない準備として、

ただ楽しければいいというわけでなく、意識的に楽しみ方を考えるという行為が必要なのではないかと思う。

つまりは、受動的ではなく能動的に楽しもうということだ。

今後の時代は楽しみ方も重要になる。


こう考えていくと、

今思う理想の父親像としては2つの役割がありそう。

ひとつは、土台を知ってもらうこと。
そして、楽しみ方を知ってもらうこと。

次は知ってもらうためにどうするかという話になるが、

こういう話は、言えばいいってものではないだろう。
急ごしらえで紹介されたものは覚えられたためしがない。

それは内容の問題もあるだろうが、聞く体制が整っていないということもあるだろう。

明らかに準備が足りていないものがある。

興味を持ってもらえていないのだ。興味もないのに、土台を知ろうと思わないし、楽しもうとも思わない。

そうすると、父親としての共通した役割が見えてきた。

「興味を持ってもらうこと」である。

じゃあ、どうやって興味を持ってもらうのか。
そこが難しいんだよというのが誰でも思うことなのだが。

ただ、確かなこともあって、

知らないことに興味を持つことはないということである。
というか、無理である。

知らないのだから。
どうしようとも心に引っ掛かりようがない。

ということは、興味を持ってもらうための第一歩は、
知ってもらう活動をすることか。


あれ、堂々巡りしてないか…

知ってもらうためには、興味を持ってもらう必要があるのに、興味を持ってもらうためには、知ってもらう必要があるという。


うーん。悩ましい。

こういう時は自分の子どもの頃のことを思い出してみようか。

思い返してみれば、子どもの頃に興味を持つことができたのは、自分の身近にあったものである。

アンパンマンやウルトラマン、そして砂遊び。

どれもこれも、すごく近くにあった。
そしてそれは誰かが周りに整えてくれていたものである。

となると、子どもにとっての身近という環境を整えていくのが、
親の役割になりそうだ。

子どもから見たときに、
なんだかよく分からないけど、父親がなんだかたくさんのことやってるなって思えれば、どこかで興味を持つ瞬間があるのではないだろうか。

押し付けることはせず、ただ淡々と続けていく。

まるでそうあるのが当たり前であるかのように。


なるほど、なんとなく自分にとっての理想像が見えてきた気がする。
じゃあ、今の自分には何ができるだろう。

シンプルにできることを増やすという作業だろうか。

それってつまり何?という話だが、一つくらいこのnoteの中で決めておきたいものである。

さて、何にしようか。


個人の想いとして、子どもに文章を書くということ(内容問わず)に慣れてもらいたいので、文章を書き続けるというのはどうだろうか。

それならnoteとも相性がいい。

よし、とりあえずそういうことにしよう。

3か月後に全く違うことを考えていてもいい。
とりあえずというのは、発進するには好都合。


どうか未来の自分には、これを読んで馬鹿にしてもらいたい。
まだまだ浅いなとか思ってほしい。

そうなっているならば、少しは子どもにとって良い環境になっているのではないかと思う。

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