どうしたら「大人」になれるだろう?
もう15年くらい同じ種類の野球ゲームを続けている。
振り返ってみると、なんだか大人になっても変わらないものだなと思う。
今27歳なので、15年というと12歳からやっていることになる。
その間に、小学校を卒業して、中学高校大学と進み、社会人になった。
環境も人付き合いも、約3年刻みで目まぐるしく変わって、当時と同じだと言い切れることはほとんどない。
昔に比べて色々なことは知ったし、当時よりも使えるお金も多少は増えたと思っている。
わざわざそのゲームを選ばずとも、いくらだって遊び方はあるはずだ。
それなのに、定期的に同じ友人と同じゲームで遊んでいる。
しかも、めちゃくちゃ楽しいんだから笑えてしまう。
少なくとも自分が思い描いていた「大人」というイメージに、12歳の頃に楽しんでいたゲームを、同じように楽しんでいる姿はない。
かっこいい「大人」として生きてみたいと思うけれども、どうにも自分の姿は追いついてはいかないようだ。
今だっておもちゃ売り場に行けば楽しめるし、子どもの頃に見ていた漫画を読み返して楽しむことだってできる。
どこかのおしゃれなレストランを知っていたり、隠れ家的な場所を知っていたら、かっこいい「大人」になれるのだろうか。
そう思って、一時期色々なお店をめぐってみたり、バーを探してみたりしていたことがある。
なんだか「大人」になった気分がして、ちょっと誇らしい気持ちになったりもした。
が、そうやって色々なお店を知ったりすると、何も知らなかった時に比べて、なんだか大したこともなかったような気がしてくる。
外側から見た時は、あんなに煌びやかに見えていたのに、なぜだろう。
内側に入ってしまうと、それ自体の見方が変わるというより、自分がそこにいることによって、なんとなく普通なことに思えてしまう。
隣の芝生は青く見えるとはよく言ったものだ。
「大人」という隣の芝生をずっと憧れるように外側から見ている気がする。
そして、こうしたら大人になるかも、ああしたら大人になるかもって考えて、何か変えてはみるけれど、隣にあった「大人」の一部が内側に入ってくると、途端に青く見えなくなる。
そんなこんな考えてみると、もう「大人」という幻想を抱く必要はないのではなかろうか?と思えてくる。
いいじゃないか、いつまでも野球ゲームが好きだとしても。
それを一緒に楽しめる友人がいて、時間を共有することが出来る。
今となっては、変わることよりも変わらないことの方が難しいなと思う。
自分なのか、友人なのかは分からないが、いずれは何かの影響で一緒にゲームをすること自体がなくなってしまうかもしれない。
ならば、楽しめる間は楽しみ尽くすことにしよう。
ずっと同じようにできると思っていたことが、1か月後にはもうできなくなっていることなんていくらでもある。
無理に幻想を追いかけるより、今できる楽しみ方をちゃんと楽しみ尽くす。
それで違う楽しみ方をしたくなったら、また別の楽しみ方を探せばいい。
楽しいと思う気持ちに蓋をせず、必要以上に自分を飾らず。