お店でお菓子を買う、それとも家にあるアイス?
子どもにとってこれほど大きい問題はないだろう。
ちょっとずる賢い大人になると、
お店でお菓子を買ってもらった上で、別の日にアイスを食べるという選択になるのだが、
そんなことを言ってしまうのは野暮だろう。
冒頭の文章は、以前行った皮膚科にいた親子の会話である。
当初は、子が親に向かって、
お店でお菓子を買ってほしいという主張をしていた。
親としては、なんでもかんでも買ってあげるわけにもいかないが、何も与えないで文句を垂れる子をいつまでもあやし続けるのは労力が必要だ。
どうにかして、この場を上手くおさめないといけない。
主張はひとつ。お菓子を買いたい
それだけだ。
さて、どう切り返すのかと見ていたら、
突如、家にあるアイスが登場した。
そして、冒頭の質問にいきついたのである。
切り返しとしてこれほど素晴らしいものはあるだろうかと思ってしまった。
得るものに理解示した上で、失うものを提示する。
これで悩まない子どもはいないだろう。
病院に来る前に、今日は帰ったらアイスを食べていいというような約束をしていたのかもしれない。
仮にそうだとすると、
子としては、既に「アイスを食べていい」という権利を手中に収めていることになる。
しかし、いざ病院に来てみると、待ち時間も長いし退屈だしで、
お菓子が欲しくなってきた。新しい欲求の誕生である。
この時点で、子の中には「アイスを食べる権利」と「お菓子を買いたい欲求」の2つが存在している。
そこで、親はこの2つのどちらにするか選べと提示したことになる。
権利は既に持っているもののため、破棄するということは自分が持っていたはずのものを失うことになる。
これはなかなか手放しづらい。
一方で、欲求についてはふと湧いてきたもので、持っているというよりはこれから得るものというイメージであろう。
権利を手放すほどの苦しさはない。
権利というものは厄介なもので、一度手中に収めてしまうと、それに対して傲慢に振る舞うこともできてしまう。
あって当たり前という感覚である。
こういうことができますよという説明を受けていたのに、
突然「状況が変わったのでできなくなりました」と言われたらどうだろうか。
かなりの反発を生むのではないかと思う。怒りたくなることもあるかもしれない。
もらえるはずの給付金がもらえなくなった等のことを考えてもらえたら分かりやすいだろうか。
つまり、子からするとアイスを食べるのが規定ルートで、
そうじゃなくなるよと言われたら、かなりの抵抗が生まれるはずである。
「権利に対する保有効果」とでも言えるだろうか。
こうやって考えていくと、子としては、
お菓子が欲しかったのではなく、アイスに加えてお菓子が欲しかったのではないかと思う。
「アイスを食べる」がベースにあるイメージだ。
その土台があるから、新しい欲求を持つことが出来るわけで、土台を崩されてしまうのなら話が違う。
実際、子の返答は「家でアイスを食べる」だった。
大人に比べると、欲求に素直なはずの子どもでも、失うことに対しては抵抗が強いということなのかもしれない。
何であれ、一度手にしてしまったものは失いづらくなるものだし、失った時にはそれ相応のダメージを受ける。
これを自分の事として考えたとき、普段一体どれほどのものを失っているのだろうかと思う。
気付いていないからダメージが少ないだけで、実はかなりのものを失っている可能性があるのだ。
何を土台にして、何を欲求として行動しているのだろうか。
お金や時間であれば分かりやすいからいい。
ほかのものはどうなんだろう。
人間関係や自分の移りゆく思考など、得ていると失っているとも言いづらいものが、世の中にはたくさんある。
全てを把握しようというのは当然できないわけであるが、可能な限り、
自分にとってのアイスは?お菓子は?という思考を持って行動しておきたい。