どうして身近な人の言葉を信じられないのか?
僕は身近な人の言葉を信用できない性質を持ってしまっているように思う。
人のことを信用できないとかそういうことではなく、
言葉を信用することが難しく感じてしまう。
だからといって、初対面の人やあまり僕のことを知らない人からの言葉を信用できるかと言われたら、それもできないと思ってしまう。
一言でまとめれば、ただの面倒なやつなのだ。
とはいえ自分は面倒なやつだと言って落ち込んでしまうだけでは面白くないので、ちょっと深堀りしてみたい。
「なぜ僕が身近な人の言葉を信用できないのか?」というところの根本には何があるかと考えてみると、バイアスに繋がってくるんじゃないかと思う。
自分の身近にいる人のことをあえて悪く言うだろうか。
相当何か直してほしいところがあったり、実害があったりすれば、言いづらくとも言わなければ、後々困るということもあるだろう。
しかし、それほどのことでもなければ、わざわざ言わない。
僕自身の経験としても、悪く言うという行為を意図的に行ったことはない。
自分の想定とは異なり、悪い方向に転がってしまったことは抜きにして。
だとすると、多少の忖度が入ってしまうのは仕方ないことだと思っている。
本当はこう思っているけれど、その通りに言ってしまうと傷つけてしまう可能性もあるし、自分から嫌われる可能性だってある。
そうなるのはいやだから、オブラートに包んで言おう。
そういう考え方になってもおかしくない。
つまりは、思っていることを言っているというよりは、心を乱さないための言葉を伝えているというイメージである。
だとすれば、言葉をそのまま受け取ってしまったら、それはオブラートに包まれたモノを真に受けてしまうことになる。
オブラートに包まれたモノならまだいいが、まったく関係ないことを伝えられている場合もある。
全員が全員そう思っていないとは思うけれど、実際にどう思っているかはわかるはずがない。
そう思ってしまうと、忖度しつつ言葉を選んでいるだろうという可能性を捨てきれない。
こんな考え方を持ってしまっているせいで、どうにも人の言葉をうまく受け取ることができない。
読書が好きな理由にもつながっているかもしれない。
少なくとも文字にされたモノに嘘はない。
もちろん読者への忖度はあるだろうが、それは僕を慮ったものではない。
自分自身が癖のようにお世辞を言ってしまうから、相手から発される言葉も同じくお世辞だと思っている。
この考え方から逃れるためには、どんなことをしたらいいのだろうか。
そんなお世辞に囲まれた世界が楽しいのかと言えばそんなことはない。
もし願いをひとつに叶えてくれるという話があるのなら、まずはお世辞まみれの世界から本心で話していい世界に変わってくれることを切に願う。