仮想の往復書簡 第7便
夜の散歩
こんにちは。
夏の夜は、なんだか夜闇が濃い気がしますね。湿度や温度が高いから、空気に密度があるように感じるのでしょうか。
たっぷりと熱を含んだ空気の中、夜道を歩きながら頭に浮かんだことをお便り致します。
19世紀ウクライナ出身の画家、アルヒープ・クインジが描いた「夜の放牧」という絵は、
タイトルのとおり、月夜の牧草地帯に数頭の馬が佇んでいる情景を描いています。小高い丘の上に馬のシルエットがあり、
丘の向こうには大河が静かに横たわるように流れていて、水面は月明かりに輝いています。
ずば抜けた画力によって描かれている大変美しい絵ですが、ただ技巧的なだけでなく、
平面であるはずの絵の中に、広大な空間までも感じてしまう作品です。
あるいは、E.L.カニグズバーグというアメリカ人作家の児童文学「クローディアの秘密」。
クローディアという女の子が弟と連れ立って家出をし、ニューヨークのメトロポリタン美術館で寝泊りするお話です。
ひとけのない夜の美術館で、警備員の目をかい潜りながら、展示品の中世の貴族が使っていた天蓋付きのベットで眠ったり、館内の噴水で沐浴したりして家出生活を送ります。
先日、ふと思い立って、仕事帰りに夜遅くまで開館している美術館の展示を見てきました。
展示の内容もとても良かったのですが、夜の美術館にいる、というシチュエーションがなんだか夢の中にいるようで、何の心配事もなく、時間や空間のさかいもなくなって、ただ夜の中に浮かんでいるような心地がして良い時間でした。
そして、20年ほど前にアメリカ・ニュージャージー州に旅行に行った時のこと。
夕ご飯を食べ終え、特に何をするあてもなく街中の本屋に入りました。よくあるチェーン書店というか、何の変哲もないような大型書店でしたが、店内にカフェが併設されていて、
みんなコーヒーを傍に置いて読書をしたり、勉強道具を持ち込んで何かの勉強をしたりしていました。
当時は、私が無知だった事もあるのか、日本では本屋の中にカフェがある光景なんて見たことがなく、なんてお洒落なの、さすがアメリカ!と
すっかりお上りさんのようになって羨しく眺めていました。
みんなきっと、夕食を食べ終えて、寝るまでのあいだの時間にここへきて、何かの勉強をしたり、書店の棚で見つけた本を読み耽ったりしていたのでしょう。
客席の向こうは一面の窓ガラスで、くっきりと濃い夜闇を背景に、オレンジの暖かみのある照明の下で思い思いの時間を過ごすニュージャージーの街の人たち。
近所の家から、ふらっと夜の散歩がてらそこへ来ている感じがまた良いのです。
家のリビングの延長みたいな空間を、何となく共有しているような雰囲気で。
昼間のようにワイワイお喋りするでもなく、
帰ったらもう寝るだけだし、一日のお終いの時間を一人で静かに過ごしている、周りの人と一緒に。
私は日々、単調な生活をせっせと生きているだけの人間ですが、
本当に時々、ふと、此処ではない場所や時間に繋がっている回路が何かの拍子に開く瞬間があって、
そこには月明かりの下で牧草を食む馬や、
街の本屋の暖かな照明の下で、ノートを広げる人の姿が現れたりします。
いろいろあるけれど、世界がこういう場所で良かったなあと思える瞬間です。
あるいは真夏の夜がみせる夢なのかもしれませんけれど。
それではまた、お便り致します。
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