東京オリンピック見たかったな
東京オリンピックが終わった。ぼくはスポーツを見るのが好きなので、オリンピック開催期間はつらかった。
スポーツを見るおもしろさは、観戦者の努力は(選手を勇気づけるみたいな角度ではあるかもしれないが技術の優劣を競うという観点では)勝敗になんの意味も影響もなくただ見ることだけしかできなくて、それなのにプレーや結果にどうしても気持ちを動かされてしまう関係性の不均衡さにあるのだと思う。
プレイしている選手その人が投じてきた時間と努力が結果として報われるか/負けてある意味無に帰すのかを、観戦者は完全に安全な場所から眺めている。身体に恵まれた人間が強い意志と大変な鍛錬の末に得た妙技を、おなじようにその暮らしのほとんどを競技にかけた対戦相手と競うスリルを、全く努力も苦労もしていないただ見ているだけの存在が勝手に想像し感動したり、悔しさを自身の経験と共鳴させて涙する。スポーツを通じて発現する事象を個人の解釈をアクセントにしながら楽しみとして消費する。
『スポーツをすること』は人の営みとして健やかだと思う。でも、『スポーツを見ること』は健全でもなんでもないと思うし、だからこそ選手に対して強くリスペクトを感じる。
選手が「感動を届けたい」と口にすることをぼくは期待しない。感動はこっちでどうにかするからさ、あなたは自分の動機を持って全力で戦ってほしい。競技で勝ちを目指す動機の正しさ/卑しさは、観戦者のスパイス足り得るかもしれないが、スポーツ自体の強度に関しては介在する余地はない。
純粋に観戦して、応援したかったな。スポーツを見ることは、自分の身体性が当事者になってしまっては成立しない。あくまで安全な場所から、想像の範囲で、傍観者が当事者に対し感性の観点で近づくことが醍醐味なのだから。世界が不安定で、自分が危険にさらされていると自覚しているときに見るスポーツは、現実の範囲に取り込まれてしまいマジックが発動しないのだと思った。
東京オリンピック見たかったな。安全な環境で、世界規模のスポーツの祭典を無防備で無自覚な感覚で見たかった。