君はエレベーターガールを知っているか
かつてエレベーターガール(ボーイ)という職業があった。
今も職業自体が無くなったわけではないのだろうが、その存在を目にすることは殆どない。バブル期を知らない世代の中には、見たこともないという人も多いだろう。まだ百貨店に活気のあった時代、エレベーターの操作盤前は彼女らの定位置であった。今は機械音声や録音にその役割を譲ってしまったが、客の話し声に紛れぬような甲高い声で行き先を尋ねたり各フロアの案内をするプロフェッショナルである。その存在はラグジュアリー感を演出し、豊かな暮らしを象徴していた。
私が子供の頃はデパートのエレベーターに当たり前のように搭乗していたが、成人してからは大きな企業や高級ホテルで何度か見かけたくらいのものである。子供の頃は「エレベーターの操作は難しいから、あの人が必要なのだろう」と思っていた(もっと昔のエレベーターならば正しい認識だ)が、少し経てば「あの人たちが居なくてもエレベーターには乗れるのでは?」と気付き、そんな疑問を忘れているうちに「あの人たち」は居なくなった。
バブルと一緒に弾けて消えた「あの人たち」。人々の記憶からも消えてしまいそうな職業。そんなことを何故今更思い起こすのかと言えば、会社のエレベーターに乗り込むと「何階ですか?」の声が聞こえてきたからだ。操作パネルの前には親切そうな顔のオバサマがこちらを向いて立っている。
こういう場面で、多くの人はどう対応するのだろうか。素直に行き先階を伝え、数字がプリントされたボタンを押してもらうのだろうか。世間一般の常識ではそれが正しいのだろうか。可能であれば、街ゆく人にアンケート調査でもしてみたいものである。が、今はそんなことをしている場合ではない。一刻も早く職場の鍵を開け、クーラーの電源を入れたいのだ。
私は可能な限り怪しくない笑みを浮かべながら「ありがとうございます」とだけ伝え、右手を伸ばして会社があるフロアのボタンを押し込んだ。
何故そうしたのか。答えは簡単で、そうした方が早いからだ。そもそもエレベーターに乗り込む際、「よし、8階のボタンを押すぞ!」などと意気込むことは滅多にない。それが通い慣れた職場であれば皆無と言って良いだろう。きっと皆、ほぼ無意識のうちに力無く虚ろな瞳で最小限の力を以て何となく完了する作業ではないだろうか。少なくとも私はそうだ。つまり何が言いたいかというと、行き先階を突然尋ねられても反射的に回答できないのだ。「エート、8階お願いします」となってしまう。となれば、本来はこの「エート」部分でボタン付近に指が伸びているのではないだろうか。
そして更にそれを聞いた相手は、押し慣れない階のボタンを探し始めるわけだ。「エート、8階ね」なんて言いながら押すことになるかも知れない。本来ならばこの時点でもうボタンは光っていた筈なのだ。尤もこれはきちんと行き先が伝えられた場合の例であり、言い間違いや聞き間違いのリスクも考慮する必要があるだろう。
もし今もエレベーターガールがメジャーな存在として確固たる地位を築いており、自分自身でエレベーターを操作することなど滅多にない、ということであれば話は別だろう。エレベーター前では「よし、8階と明瞭に申告するぞ!」という事前準備が可能であるし、申告を受ける相手もプロであるから、聞き間違いのないよう常に細心の注意を払って耳を澄ませていることだろう。そうであればきっと私も胸を張って「8階お願いします!」と元気に伝えることができただろう。
しかし今は事情が違うのだ。親切そうなオバサマには大変申し訳無いが、見知らぬ人に対して何の躊躇いもなく行き先を伝えて良い世の中ではないのだ。自分のことは自分でやるべき時代なのだ。
上昇する鉄の密室で生ぬるい時を過ごした後、心なしか申し訳なさそうに会釈しながら去るオバサマの後ろ姿を見て、このレディがかつてガールだった頃、もしかしたらエレベーターガールとして煌びやかな百貨店の片隅で、皆の行き先階を軽やかにタッチしていたのかも知れないなと思ったのだった。
去りゆくマダムの背中に向けて、心の中で最敬礼を向けながらこう呟いたのだった。
「あっつい…」