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羊の脳

A「すまないね、こんなジジイの世迷言に付き合わせてしまって。」

B「いえ、僕は元来大人と話す方が好きなんですよ。」

A「しかし君も変わってるね。彼らとも久しぶりに会っただろうに、わざわざオレみたいなジジイとばかり話したがって。

前から思っていたけど、君はいつも気を遣っているね。何が君をそうさせたのか。ガサツな若者の君を見てみたいような気もする。」

B「ハハ(笑)いえ、実はそんなつもりはないんです。本当にお父さんと話したくてこうしているんですよ。」

A「ありがとう。以前もホラ、君をすき焼きに呼んだことがあったろう。あの日を思い出すよ。君を呼んだのはアイツなのに肝心のアイツが一番に寝てしまってね。あの日もほらこうやって、君だけが最後までこのジジイの相手をしてくれていた。本当に君は気を遣い過ぎだよ。一体何がそうさせるんだろう。」

B「さあ、わかりません。ただ、同年代と話していると段々何が楽しかったのかよく分からなくなってくるんです。目の前の相手と話しているって感覚が死んでくるんですよ。複数だと余計ダメです。自分も他の奴らも、それぞれにじゃなく場の空気に対して話し始める。

輪の真ん中に小さなテーブルがあって、自分の番が来たらそこにカードを置きにいかなきゃならない。カードは皆に評価されていて、得点が高かった奴が親になって次のカードを配るんです。だけど配られたカードには細工がしてあって、最初からどうなるかが全部決まっているんです。誰がどこでどの手札を出すか全部カードに書いてあるんですよ。

面白いでしょう。好きで集まった者同士なのに、いつの間にか誰も誰とも会話してないんですよ。」

A「君は相当面倒な奴だな。君と付き合う彼らに同情するよ。しかし、それがどうしてジジイと話す理由になるんだい。君が言ったの甲でない理由であって、乙である理由ではないよ。」

B「これはお父さんもなかなかですよ。しかし。さて何故でしょう。

僕の三倍も生きて、まだそうやって若いところに信頼があるのかもしれません。お父さんの感覚の若さは間違いなく肉体の若さからきている。肉体は言ってみれば魂の巣ですから、いつもそれを喜ばせられる快い状態を保っていなくてはならない。蛍光灯の灯りで育った鉢植えの植物と道草と、どちらがより瑞々しく放縦か言うまでもありません。僕は放縦さが語るものと会話がしたいのです。」

A「肉体か。しかし君の理論ですすめるなら君が一番会話をすべきなのは犬や猫じゃないかな。彼らは我々人間より遥かに健全で美しい肉体を持っているだろう。」

B「いいえ。彼らは自分で自分に触れられないという点で最も不幸な肉体を持つのです。不快と快の患部に自由に触れることができない、たとえ五体に不自由なくともです。彼らはすべて揃えても尚足りないのです。そこに一種の諦念がある。」

A「確かに。背中が掻けなくて狂い死にする猫などいないね。君が言っているのはそういうことかな。彼らの魂は生まれながらにしてその依代を諦めている。確かにそれは放縦とは程遠い魂と言えるが。」

B「そういうことです。だから犬猫は人間に撫でられるのを至上の悦びと感じているのですよ。好きなときに自分や誰かに触れてもらえる僕ら人間にはちょっと想像もできない悦楽でしょう。」

A「うん。実は長年思っていたことなんだけどね、一部の貝類や植物がその姿を我々の生殖器と似通らせるのも、ここに病理があるんじゃないだろうか。」

B「アワビやナスが、人間に触れられる為にそうなったというんですか。」

A「そう。肉体が魂を育てるが魂もまた肉体を育てる。思うに、肉体は魂の強烈な要望に応える形をとる。

考えてみれば、我々人間だって皆巨大な生殖器だ。我々に生殖器が付いているのではない、生殖器に我々が付いているんだ。我々は生殖器の付属品でしかないのだよ。バックで挿れられたときの女の姿など見てご覧。陰嚢と陰茎そのものじゃないか。ちょうど尻の辺りが二つ、こう、ね。」

B「ええお父さん。」

A「わかってくれたかい。男はセックスすることで陰茎の延長をしているに過ぎないんだよ。」

B「言われてみれば…、バックで挿れているときは亀頭がひどく遠くへ行ってしまったような心持ちでいます。」

A「そうだ、しかしバックに限らない。見ようによっちゃあどの体位だって同じことさ。単なる延長手術だ。ひどく遠くか、そうとも。亀頭は君と繋がっている女の頭の位置まで前進するのだ。」

B「するとつむじから射精ですか(笑)あ、いや、それなら精子の代わりに脳味噌が出たりして(笑)」

A「いや君、それが案外笑い事じゃないんだよ。実はね、昔銀座で食べたフグの白子とそれから、あれはトルコだったかな、買い付け先の主人にご馳走になった子羊の脳味噌が全く同じ味だったんだよ。」

B「白子と脳味噌が、ですか?」

A「ああそうとも。僕はどうもね、これには何か生命の根幹に関わる重大な秘密があるように思えてならないんだ。」

B「確かに…。生命素の強いところは皆同じ味になるんでしょうか。

無粋なことを言うと、空気に触れたタンパク質が腐敗して分解される匂いとも考えられますが。

そういえば、僕の友人に不動産で働いている奴がいるんですけどね、仕事柄孤独死とかで亡くなった人の部屋へ入る機会があるんですって。すると当然嗅ぐわけですよね、そう死臭。どんな匂いか気になるじゃないですか。だから聞いたんですよ。死臭って一度嗅ぐと忘れられないって言うけど実際どんな匂いなのって。」

A「そしたら?」

B「ザーメンの匂いだって。そいつ曰く、精子も死体も空気に触れたそばから腐っていくから、あれはタンパク質の分解される匂いなんだって。そういう理屈らしいんですよ。

でもよく考えたら当然ですよねえ。第一、精子と死体を分けるのが間違ってるんですよ。言ってしまえば僕らも大きな精子じゃないですか。」

A「うん、なるほどなあ。だからか。」

B「なんです?」

A「いや、実はね。これはアイツにも言ってないことだから、秘密にしてほしいんだけどね。実は僕、女性のつむじが大好きでね。アイツが生まれる前だけどさ、母さんと付き合ったばかりの頃は寝ている間にこっそりつむじの写真を撮ったりしてたんだよ。何枚もね。そのとき感じていた、あの、どうしようもない衝動の意味が今わかった気がしたんだ。

そうか、あれは射精欲の顕れだったんだなあ。僕の魂は、精子そのものとなって母さんのつむじから飛び出すことを夢見ていたんだ。亀頭もつむじも、この狭い牢獄からの出口だったんだって、今それがわかったんだよ。」

B「お父さん。」

A「ああ、ちょっと話し過ぎたな。いいかい、このことはアイツに話さないでいてくれよ。父子というのはね、それぞれが望まれた役割を演じ続けるという、実は他人同士よりも奇妙なバランス感覚でもって成り立っているんだからね。ちょうど君と友達の会話が抱えている問題と同じさ。」

B「ええ、勿論。」

A「ありがとう。それからね、今日話したようなことはアイツとは話さないでほしい。アイツは君と違う道を歩いているんだ。アイツが望んでその道にいる限り、俺は父として応援してやりたいと思ってる。学生の頃なら何を話してくれても構わなかったよ。だけど今は違うんだ。アイツは爪先立ちで歩いているから、少しでも障害になることは避けておいてほしい。わかってくれるね。」

B「ええ。」

A「すまないね。いやしかし、君は本当に気を遣う子だねえ(笑)一体何が君をそうさせたんだろう。」

B「ハハ(笑)さあ、」


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