大切な人に理解してもらえないという無意識の壁
自分の大事な人を含むマジョリティに受け入れてもらえないだろうな、と思うこと。
ほんの些細なきっかけでも、「受け入れてもらえないかもしれない」と思うだけで、人の選択は変わってしまう。
今日悪夢を見ていて、それを思い出した。
自分の中で当たり前だと思っていた決断の何割かは、“大切な人に受け入れてもらえるか”が影響している。
その大切な人は親かもしれないし、友人かもしれない。大切だと思うことと、自分の決断を受け入れてくれることは違う。大切だと思うことが、未来を狭めることだってあるのかもしれない。
その結果が、大切な人を含むマジョリティに受け入れてもらえるか、が今の社会を形作る一因になっているのだとしたらとても怖いことだ。実際のところどうなっているのか、私にはわからない。ただ言えるのは、自分が無意識のうちに避けたことの中にはこんな思いが裏にあるものがあって、今は「その時言い出さなかったのが悪い」ということになっているということ。
少なくと私は、そんな理由で諦めたことを非難することはできない。親に反発して進学する学部を決めたことがあったけど、同時に親に反対されそうなことをいくつか諦めた。そんなことなんて誰にでもあるし、それの避けたことを理由としてその人の責任ということは絶対に言えない。社会の歪みは、こうして伝承されていくのかもしれない。
私に何ができるか?私にできることは、些細なこと。ただ大学院生、特に博士後期過程の大学院生の実情を伝え、後からやってくる人が“大切な人の理解の壁”を乗り越える際の参考資料を作り続けることだろう。大学院生の周りには様々な歪みがあるけど、その要因を取り除く方向に少しずつ動いていきたい。
悪夢で深夜に起きたことで、大事なことを言葉にできた気がする。
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