不毛な議論を避けるために -科学からの処方箋-
悲劇的なことに、今、私たちがすべきことについての“素晴らしい意見“がとてもたくさんある。多くの人は、それぞれ別々の意見を好み、結果として議論は永遠に続き、やがて罵り合いへと発展している。
それは、目の前で続いている感染症でもそうだし、個々のニュースについてもそうだ。
インターネットが発達し、“素晴らしい意見“にいくらでも出会えることは、悲劇だったのだろうか?これはどうしようもないのか?
完全ではないけれども、一つ処方箋がある。それは、科学の議論を活かすことだ。
“素晴らしい意見”がいくつもある、という悲劇
“素晴らしい意見“がいくつもある、という事態が悪いように作用するというのは、意外なことだ。でも、確かに、インターネットではこれが起こっている。
例えば、スポーツで何か事故や失敗があったとする。
あるひとは、失敗した人を批判するための“素晴らしい意見“をだす。
これを聞いた人の一部は、この意見を信じる。
また、別の人は、失敗した人の原因を説明し、擁護する“素晴らしい意見“を出す
これを聞いた別の人たちは、この意見を信じる。
ある意見を信じた人は、別の意見が劣っているように感じてしまう。
でも、別の意見を信じた人も、もう一方の意見が劣っているように感じている。
どちらも、一歩も譲ることなく、あちらこちらで議論が始まり、どちらも相手が劣っていると信じているので、この議論は終わることはない。
インターネットがなかったなら、“素晴らしい意見“にいくつも出会うことはなかった。だから、こんな問題は起きることがなかった。
このような不毛な議論を避ける方法はないのだろうか?
永遠に続く不毛な議論の原因:意見の一貫性だけで、信じている
この不毛な議論の原因は、一貫した主張で、筋の通った意見かどうか、をみんなが見ていることにある。一貫した主張で、筋の通った意見ならば正しい、素晴らしい、とみんなが信じている。
一方で、そのような素晴らしい意見は実際のところいくらでも作れる。
自分が正しいと思う意見がいくつも出されてしまったとき、無理やり比較しようとして、私たちは信じられる理由を探し出してしまう。一貫していて、筋が通っていて、ここに信じられる理由がある。だから、一つの意見に固執する。
ここで問題なのは、素晴らしい意見がいくらでも作れるように、信じられる理由も、いくらでも作り出すことができるということだ。
一度自分の中で、“素晴らしい“という事実と信じられる理由が作り出されてしまうと、意見は変わらない。たとえ外から何を言われようとも。
その先には、違う意見を信じる人との争いしかない。
処方箋:意見を評価する方法を別に用意する
このような問題に対する解決策に、意見を評価する方法を別で用意する、ということがある。そんなことは難しい、と思うかもしれない。でも、科学を研究する中では確かに行われている。
多くの人にとって、科学の研究成果というのも“素晴らしい意見“の一つだろう。だけど、研究の現場には、たくさんの“素晴らしい“意見と“それほど素晴らしくない“意見が溢れている。そして、“素晴らしい“だけで意見が評価されるとは限らない。
意見を評価する手法は、分野ごと、研究対象ごとに異なるが、概ねいくつかのことが言えるだろう。
再現性:意見を主張する側は、読者が同じ論理展開を再現し、同じ証拠を再現するだけの情報を示さないといけない。
意見を主張する側は、慎重に意見を述べて、読者が論理展開や証拠を再現する情報を全て与えないといけない。
研究の現場では、たくさん出てくる意見を、他の人が確かめる。
確かめることができなかったものは、どれほど“素晴らしい意見“だったとしても切り捨てられる。例えば、STAP細胞の時のように。
このことによって、筋の通った意見でなくとも、価値があって再現性がある意見ならば評価される。
そして、誰もが納得できる。
だって、この場で、自分で再現してみれば良いのだから。それを再現するだけの情報が目の前にあるのだから。
再現できるように書く、そして再現できるか確認してもらう。この過程をパスしたとみんなが認めれば、その意見は、一見素晴らしくなくとも、認められる。
検証可能性:どんな意見でも、確かめる方法を明示する
もう一つ重要なことは、意見を出すときに、確かめる方法を明示することだろう。もし〇〇なら、この意見は正しい。もしこれこれがあったら、間違っている。主張する側が明確にしておく。
こうすることで、この後出てくる証拠によって、自分も、相手も、全ての人が意見を修正できるようにできる。
一つの“素晴らしい意見“に固執しても、それが正しくなければ、争いを生むだけならば、価値はない。それならば、どんな証拠が出たら間違いと言えるかを明示して、間違いとわかったらあっさり認めて、別の“素晴らしい意見“を探した方が良い。そうすることができるように、あえて、後で別の人が証拠によって意見を検証できるようにする。
“素晴らしい意見“はたくさんある。科学の知見を活かせば、“素晴らしい意見“を取捨選択して、不毛な争いを避けられる
“素晴らしい意見“はたくさんある。一つの事件に対して、ニュースを見渡せば、インターネットを見渡せば、それはそれはたくさんの解釈があり、意見がある。
探そうと思えば、それらを信じる理由はいくらでも見つかる。でもその先にあるのは、別の意見を信じる人との争い。
そんなときに、科学が研究の現場で用いている方法、再現性と検証可能性、は、意見を見分けるのに役に立つ。
一見回り道に見えるかもしれないが、そもそも、私たちは意見を争わせたい訳ではなく、問題に対する解決策を知りたいのだ。“素晴らしい意見“をひとつづつ取捨選択していく方が、結局のところ、近道ではないだろうか?