初めてのお葬式
葬儀に出席したのは初めてだった。
胃がんで胃と十二指腸を全摘出した叔父が亡くなったと母から連絡が入り、2日後の飛行機を予約して実家へ向かった。
葬儀に出るという実感はあまり無く、実家に行くけどそんなにわくわくしちゃいけないよな、くらいの感覚。
初めて喪服を着たときも、いつもと違うテイストの服を着たくらいにしか思わなくて、こんなに普段の気持ちでいいのか少し戸惑ってしまった。
当日も葬儀が始まるまでは改まった場所で少し緊張していたものの、ほぼ普段通りだった。
が、いざ葬儀が始まると普段通りではない空気に包まれていく。
目の前に亡くなった人がいるのだ。
棺から離れたところから見ている分にはまだ良かったが、「最期のお別れです」と言われ棺へ近づくと足が震えた。真っ白な棺の蓋が開き、顔だけ見えるようになっている。
初めて亡くなった人を見た。
これがものすごくショックだった。
叔父が亡くなったというより、葬儀に参加しているというより、亡くなった人を見たということが私にとって一大事だった。
そしてお花を棺に入れるとき、母に「触ってあげて」と言われ、頬にそっと触れた。冷たかった。
小さい頃読んだ本に、死んだ人の体は冷たいと書いてあった。それを読んだときは「へえ、冷たいんだな」と思うくらいだったのだが、まさか本当に触れる日が来るとは。
人間はとても身近にいるし、自分自身も人間だ。
生きているということがあまりに当たり前すぎて、死を思うことが少なくなっている。
死がなければ生もない。生きているということは死があるということなのだ。と、頭では理解しているつもりだった。でも全然分かっていなかった。
亡くなった人を見て触れたショックは、私の中にいつまでも残り、実家から帰ってきてもなかなか普段通りでいられなかった。
ぼーっとしたり、やたらご飯を食べたり、ひたすら寝たり。人と会うのも家で仕事をするのも普通にできない。食材の買い出ししか外出しない日が続き、しばらく家に引きこもっていた。
叔父が胃がんだと知ったときに友人や知人に呼びかけて千羽鶴を作った。実際には2000羽以上の鶴が集まり、ひとつひとつ糸で繋げて叔父に渡したら、よく見えるようにと家の玄関に吊るしてくれて、お見舞いに来た人が数を増やしてくれたりもしていた。
その千羽鶴を預かってきて天に焚き上げた。
なんとも言えない気持ちだった。本当になんとも言えない。
お焚き上げを終えたら自分の役目がようやく終わったような気がして、少し気持ちが楽になり、また人に会ったりできるようになってきた。
内に籠もる時間は必要だが、こんなにもなにもできなくなるとは。でも全て必要な時間だったし、全て必要な体験だったのだ。朝起きられなくて「ああまたこんな時間まで寝ちゃったなあ」と思ったのも、お腹いっぱいになっても食べ続けて苦しくなったのも、1日ぼーっと過ごして「今日なにしてたんだろう」とがっかりしたのも。無駄なことはひとつもない。
こうしてまた私という人間の色が濃くなっていくんだろう。
早く治そうとか元に戻らなきゃと思う必要はない。元に戻ると言っても元ってなんだか分からないし。
ただゆっくり変化していくだけだ。
それを恐れなければ何にでもなれる。
この生がいつ終わるかなんて誰も知らないし、決まっていないのだから、せめて今日を生きることを楽しんで生きたい。
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