お墓参り
今日は家族でお墓参りに行った。
「お盆にお墓はお留守なのよ。」と東京のおばあちゃんに言われたが、関西では迎えるためにお盆入りの時に行くこともあるらしい。
ただ、別に毎年そうしている訳ではなく(むしろ初めて)、私が今日お墓参りに行きたくなったので、家族で行っただけだ。我が家以外にも3組ほどお参りに来ていた。
とってもいい天気で、風が強かった。
乗っていた車が外気温度を教えてくれる機能が付いていて、麓では34℃だったが、お墓のある山の上では30℃と4℃も気温が違って驚いた。
風が心地よく、過ごしやすいエリアの墓地で、いいところに建てたなと思った。
なぜかふと、お墓参りに行きたくなるときがある。
それは義務感ではなく、「なんとなく気持ちがいいから」である。
お墓に行って、少しお掃除をしたり、お花を生けたり、あの世の親族にご挨拶に行く感じが好きだ。
あんまり言葉にできないけど、なんかすっきりする。
「また来るね〜。」という気持ちになる。
その後に家族でご飯を食べに行ったりというお出かけの感覚も、好きな要素の一つだと思う。
小まめに行く訳ではないのだが、一年に一回は行きたい気分になる。
不思議だ。
あの世はあるのだろうか。
分からないけど、私が想像するのを超える何かがある気がする。
理由は、今いるこの世も、私の想像をはるかに超えているからだ。
死んだらぷつっと終わってしまうのかなと心配になりつつ、なんだか繋がっていそうな気がする。
なぜなら、水が蒸発して雲になって、雨が降って、また水に戻るように、この世のほとんどのものは回り回って循環しているから。
いのちも循環するものなのではないだろうか。
でもそれは、私の想像する範囲だし、この世の概念でしか考えてないから、違うかな。
大叔母が亡くなった時に、思ったことがある。
大叔母は93歳である日の朝、いつものように居間のソファに座りながら、眠るように老衰で亡くなった。
旅行が大好きな人だったが、歳を取ってからは遠出や外出がむずかしくなっていた。
亡くなったときは、とても悲しかったが、少し落ち着いてからふと思った。
身体という器が古くなってしまって、大好きな旅行や外出ができなくなってしまったが、死を迎えて、魂は自由にどこでも動けるようになったのではないか。
見たかった遠くの綺麗な景色や、学校の音楽会で歌っている弟の姿を自由に見れるようになったのではないかと。
分からないけど、死を迎えて、何か素敵なことが起こるといいなと思う。
死を迎えた人が今(という概念があるかすら謎だが)幸せだといいなと思う。
そんなことを思いながら帰りに美味しい明石焼を食べ、魚の棚で鰻を買って帰った。
家族全員で鰻を食べ、幸せな一日であった。