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お城下の西を歩く

高知城の天守がチラリと見える

高知市内の

静かな路地のあたりに

素敵な公園があった。

城西中と書いてある学校の目の前で

柔らかい芝草と大きな木陰をつくる木々が配されていて、

昔ながらの子どもたちのための遊具がある。

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地面が柔らかい、ひなたと日陰がある、

赤ちゃんからお年寄りまでほっとできる公園は

いい公園。

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目の前の市立城西中、その北の県立盲学校含むこの公園のエリアは、

戦時中の高知空襲で全焼するまで

官立高知師範学校(高知大学教育学部の前身)があったという記念碑が建っていた。

高知城の天守は日本国内でも貴重な現存天守閣である。

アメリカ軍はわざわざ目立つ城を避けて至近の街を焼いたのか、と

青く晴れた金木犀香る令和の秋の空に

非戦闘員の住む街に無差別に爆弾を落としていく爆撃機が無数に飛ぶ幻を想った。

城が残ったのは当然戦略的な理由で、

文化財にリスペクトした結果ではないだろう。

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この辺りの越前町(えちぜん)とか、大膳町(だいぜん)という町名が、

城下町っぽい。

大名が住まった城下町の町名は当時の住人(殿様から町人まで)にちなんだもので言葉は独特でかつ似通ったものが多いが、

大膳町の由来になった殿様は、少し特殊な経歴を持っているらしい。

土佐藩の支藩、今の四万十市中村あたりが拠点だった土佐中村藩3万石の小大名だった

山内大膳亮豊明(やまうちだいぜんのすけとよあきら)、地名の由来となった通称大膳様

という人は、

いわゆる生類憐みの令の犬公方(いぬくぼう)のあだ名で残念な印象の強い

五代将軍徳川綱吉にかなり気に入られて

外様でかつ小藩の殿様にはあり得ない異例の昇進を

「させられた」

らしい。

(若年寄というかなり重役。ゆくゆくは老中にという話まで)

大膳様が綱吉公にそんなに気に入られた理由はわからない。

なぜ「させられた」かというと

若年寄に任命された直後に「病気で目も見えんし耳聞こえんのでできません」と辞退したのだ。

ほんまに病気だったかはわからない。

ただ、昇進させようとした側が

大膳様のリアルな現実に配慮がなかったのは

明らかだ。

幕府の重い役職につくと、めっちゃ藩財政に負担がかかったらしい。

多分3万石では絶対無理で、本家の土佐藩の財政によることも難しかったらしいことから

大膳様は多分綱吉公が逆ギレして

自分の家をつぶしにかかるのを覚悟で

辞退したのかもしれない。

そして案の定逆ギレした将軍は中村藩をとりつぶした。

しかし、大名はやめさせるけど旗本にして三千石は残しといてやる、というのも

大膳様は「特にありがたがらなかった」(あちこちに礼を欠いた)というので

綱吉公がまためちゃギレして、

全部とりあげて大膳公は家も無くしていっとき浜松に預かりでいたらしい。

何年かで許されて高知城の西に屋敷をもらってそこで隠居したとのこと。

それが大膳町の由来。

礼を欠いたのはお金がなかったから、という話だけど、

アセアセと横暴さに巻き込まれるままになる人だったのか、

それとも淡々と状況をみて静かに運命を受け入れる人だったのか、

今は想像するしかない。


(猫ちゃん…♡)

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外堀だったのかしら。堀を越えると、

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天皇陛下も泊まる県内最高級ホテル城西館が見える。

上町は、坂本龍馬の実家があった場所でもある。

坂本龍馬ファンには有名なホテル南水もある。

龍馬関連資料が展示してあり、書籍、コミック、DVDの貸し出しもしている。

たまたま初来高で知らずにとった宿が南水だった。

チェックアウト時には、

まだギリギリ2歳だった下の子は「さかもとりょうま」の名前と顔が一致するようになった。

坂本龍馬の実家や本家はとても裕福な商家でもあったが、郷士格という土佐藩の藩士の中では差別の対象の家柄だったそうだ。

大膳町と上町の間に流れていた堀川が身分をわける境だったのかもしれない。

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路面電車も通っている。

大通りから一歩裏道に入れば

静かで、便利で、良い場所である。

ちなみにこのお城周りのエリアは

それなりの大きさの総合病院がびっくりするほど多い。

それに付随して薬局も多い。

こんなエリアも珍しいのでは、と思う。

高知のお城下の西を歩いた話。









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