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流れはつきせぬ

川が流れているのを見るのが好きだ。


私の生まれた埼玉県東部の町の川は

水が緑色で

水底が見えなくて

あまりいい匂いはしなかった。


それでも生まれた時から身近にある川で、

小学校も中学校もその川のそばにあり、

何か悲しいことがあると自転車で橋の上から川を

見に行った。


川の流れを見ていると落ち着いたのだと思う。


しかし、この川は

とても人間が泳げる川ではなかった。

よく目を凝らせば、

どんな汚れた川でもたくましく生きる鯉の姿は

かろうじて見えた。

学校の清掃活動で

川から自転車や原付きバイクが

中学生の手で引き上げられることもあった。(いま思うと盗難車だったのかもしれない)

千と千尋の神隠しで

湯屋にやってきたオクサレサマが

湯殿の中で千尋に浄められて、

ボヘーッと吐き出した内容物が、

私のふるさとの川にも大体入っていた。


まれに川に入ったと言う同級生の話が聞こえてくると、

それは間違いなく武勇伝の類だった。


それでもその川べりが好きだった。

草がいっぱい生えて

土の柔らかい道だったからかもしれない。

目には見えないけれど、人間以外の生き物の

気配がしたのだろう。

あの時自覚はなかったけど、

私は、そういう場所が

おそらく生まれつき好きだ。


そしてどうやら水辺が好きらしい。

(泳げないので、水が好きだとは言うのはなんとなく憚られる。)

私の生まれた街には

山も海も泳げる川もなかったが、

あの、川べりの風景が懐かしい。




自転車で行ける範囲が

あの頃の私の世界の全てだった。



子どもの私の

狭い視野では見つけられなかった

楽しいものも美しいものも、

きっとあのふるさとの川べりにも

あっただろう。

水が清くなる可能性は少ないだろうが、

緑の草に覆われた川辺だけは変わって欲しくない。

あの川の両岸がコンクリートになったとき、

私はふるさとを再び失うだろう。






そんなわけで、

海を見るのと同じく、

水底の見える川を見ると、

感動する。


川で遊ぶ、という選択肢は、

昔話ではなかったのだと知ったのは、

埼玉県でも西の方に引越してからだ。



東京でも、場所を選べば、川で遊べる。



自分の子どもたちとは、よく川に行った。

私は子どもの川の遊び方を知らないので、

浮き輪を掴んで、浸かるだけだが。

子どもたちは、覚えているだろうか。

自分たちのふるさとの川を。


川で遊んだ回数が少ない下の子は、

間違いなく忘れているだろうが。

彼女はもう水辺といえば海の記憶が強いだろう。


高知の川は、

鮎が泳ぐ清流だが

川幅も深さも本気の川ばかりで、

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(これはもう河口だけれども)

うちの、

話を聞いてるようで

まるで聞いていない鉄砲玉の小学生と

幼児と

町育ちのカナヅチの母のトリオで

夏休みにフラッと川にいくのは

自殺行為だ。(少なくとも我が家は)


なので、高知に来てから川遊びは、

あまりしていない。


川では遊ばないが、

水路が多い町にすんでいるので、

水辺が身近で、

近所の子どもたちはよく水辺用の網をもって、ウロウロしている。

小さな魚やカニ、どじょうがとれるのだ。


道路に接する水路にも、

柵も金あみもないのが

子連れで歩いたり自転車に乗ると、

最初は肝が縮まる思いだったが、

今は、慣れた。



水の力や、水の流れ、水面の輝きが、

普通に生活する中で、

直接目に飛び込んでくる。


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水が流れていく音が、

懐かしい気がする。

なぜだろう。

生まれた町にはなかった

この水が流れる風景も音も、

ひどく懐かしい。


理由はわからない。


でも、

水が生きてるのを見ると、嬉しくなる。

ただ、私がそういう人間なのだろう。











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