"何本の色鉛筆で世界を見ていますか?"
セッションでは、私たちが持つさまざまな視点やセンサーを色鉛筆で例えてお伝えすることがあります。
例えば、人の心や意図を感じ取るのに、どれだけのセンサーで見ることができているのだろうか?
例えば
"今日こんなことがあったんだ"
と言われた時に
聞いた言葉のままに受け取る人もいれば、
その時にどんなふうに感じたのだろう、なぜそれを話したいのかな?
妄想ではなく、その言葉や行動、声の感じや表情全てから、3Dや4Dのように、立体的に全体をとらえている人もいる。
例えば、感受性が、5万本の色鉛筆を持つ人が、一言に1000の意味のこもった言葉を話していて。
それを文字通りに、ペラペラの紙に書いたような言葉に感じる色鉛筆1本の人もいれば、10万本の色鉛筆を持つ人は、その一言に、1000の意味を込めたひとの、その奥にこんな意味もあったりする?ともっと繊細に導き問いかけることができる。
パートナーシップや仕事、クライアント様の伝える言葉の意図をどこまで感じ取れるかで、合致したものを提供できるかどうかが決まる。
アーティストさんでも、歌手の方でも、人間関係でも、どんなお仕事だったとしても、根底に一番必要なものなのだとおもいます。
歌がうまくてもセンサーがなければその人の歌にはならない。
カラオケと同じになってしまう。
絵を描いても、うまくても、誰かが欲しい絵、心に届く絵ではなくなってしまう。
会話でも、センサーが多いひとにとっては、あまりに差があると無神経さや伝わらなさを感じてしまう。
逆に、人からされることに関してのみ、感じ取るセンサーが大量で、誰かに提供しようとするセンサーに関しては、一本しない、なんてこともある。
その場合、神経質でいろんなことが気になるけれど、誰かの幸せを考えることはなく、自分のことでいっぱいになっている状態の時によく見られる。
そのセンサーの細やかさを感じると、私はときめく。
素敵に感じるアーティストさんが言っていました。
メッセージを送るのに、ゎ、とか、ぃ、とか文字を変える人が嫌い、と。
私も良く感じます。
美しいものを美しく扱うこと。
言葉を大切に発するということ。
伝えようとする意図があるかどうか。
そして、送る人への真心が失われてはいないかと。
お葬式に参列してお焼香をするのに、可愛さばかり気にして歩き方やバッグの持ち方、前髪が整っているか気にしているような違和感のように感じたりします。
あらゆる違和感はセンサーの数の差によって生まれたりします。
もちろんみんな大切にする視点が違う。
みんな違ってみんないい。
失礼でさえなければ。
ただ、センサーが増えると、どこを大切にするか、ではなく、全てが大切にできる。
セッションでは、そのセンサーをお調べして、増やしていく処置も行います。
増やしていくための知識もお伝えします。
すごいと言われる人になりたい、社長になりたい、目立つ人になりたい。
いろんな願望を聞きます。
ですが、全てはこのセンサー次第。
そしてセンサーが増えた時、すごいと言われたい、や注目を浴びたい、という願望が、どれほどまでにちっぽけだったか、がわかるかと思います。
全てのクオリティはセンサー次第です。
心に届く言葉を使えるかどうか、それは発する人が、その言葉を心から知っているか、によって変わる。
真心が全ての基準になる時代。
真心が評価されてしまう時代。
買う側、受け取る側の目はどんどん繊細になっていく時代。
クオリティがバレる時代とも言われていますね。
絵画の世界でも、名だたる画家さんでも、ほとんどを自身で描かれていなかったりすることもあるそうです。
だから、制作過程の全てを公開することはタブーのようです。
エネルギーやカウンセリングの世界でも、言い当てることにフォーカスされた占いのような世界で満足するのか、未来の起こり得る可能性のあるものを今意識的に変えて、未来を作っていくように使うのか。
私の場合も、過去、過去自分だった存在、家族や周辺の人に関して、そして未来の自分、それから医療ではどうにもならない症状の治療など、全てを一度で行うこと、その全てを数値化して、どれほど変化したのかデータ化しながら処置していく手法は、完全にオリジナルであり、この世界ではタブーなのかもしれません。
なんとなくいいか気がする、のレベルではない、誤魔化しも、ない世界になっていく。
既に今25歳前後の平成の人たちにはそれが備わっている人も多くいらっしゃるように思います。
それでも磨き続けないことには、似た人が少ない世界では、感度は鈍くなっていく。
常に磨き続けることをやめない、疑い続けられるセンサーを常に増やし続けていくことが大切なのでしょうね。
#あなたは何本の色鉛筆で世界を見ていますか ?
#心の解像度 #目が粗いか細かいか