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Trying to get better

私の地元、香川を舞台にした政治ドキュメンタリーで、一昨年公開され、闇闇のうちに話題となっていた作品である、『なぜ君は総理大臣になれないのか』を観た。

君というのは、作品の”主人公”である香川1区の現立憲民主党議員、小川淳也氏の事である。無論私は何の学もないので、総理大臣たる素養として必要なものを優先順位をつけながら都度彼に当てはめて論じることはできないが、国家、ということに一度目をつむった時、組織の長として見てみた時に、なぜその長になれないのか、その理由を察することは、映画を観れば容易かった。

勿論それは、映画に登場する、彼の周りにいる人たちも大抵、同様であろう。

Netflixで観たのち、2日置いて、現在公開中の続編『香川1区』を観に映画館へ赴いた。特に何の但し書きも必要のない、純粋な続編であり、一応政治ドキュメンタリーの体を為しているものの、既に周知の事実である結末からなんの引っ掛かりもなくカタルシスへいざなわれる。そして涙を誘うのは、政治家になることを突如決意し、奮闘する当人と、その親、その妻、その娘の、連綿と紡がれた個人的な物語である。

以下、私がfilmarksに投稿したレビューを自分で引用する。

前作通して核となっている小川さんの言葉が、結果として現れて実を結んだことがとてもすばらしく、超良いドキュメンタリーだった(前作のこの言葉が最高だったので今回早起きして映画館にまで観に行った)
ラストの娘さんの言葉は、今まで生きてきた中で3本の指に入るくらい刺さった
序盤、すこし意図的な描写が多くしんどいかもしれないが後半それを巻き返すにとどまらない上り調子である。
終盤にかけて、(例えがあまり良くないがあえて素直に言うと)ある種スポーツのような感動を受け、映画としての良さを感じた。映画というのは、というかあらゆる創作物には作り手の最早怨念とでも言える程の意志が込められて然るべきなのであって、つまりドキュメンタリーがある側面でフィクションなのは当然なのであって、立憲の手先だとか、PR映画だとか、ドキュメンタリーは中立であるべきとか、勧善懲悪すぎるとか、マジでくそ程しょうもないので、たとえそれが一部を切り取ったものであったとしても、そういう陳腐なことを言うのを頼むからやめてほしい
前作もみた人なら自明だと思いますが、平井さんと小川さんの立場は、そもそも論、全然対等じゃないからね
向こう大地盤大ボス(おおじばんおおぼす)なんで
あと、あまり言及したくないが、讃岐弁というのはいつも相手を包み込んでくれる優しい方言であるのに、それを恫喝に使うなんてマジで県民の恥なので反省してくれ
描かれている通り香川というのは伝説的に保守的な土地柄でありまして、しかし保守というのは連帯であり、同調圧力であり、保守的であればあるほど、雨垂れ石を穿つでヒビが入れば案外こういうことが起きるものですよね
一方でこういう映画を諸手を挙げて称賛してよいものか、悩まない訳ではないけど、結論、彼(ら)を信じるか信じないかという極めてパーソナルな問題であると私は思います

https://filmarks.com/movies/98851/reviews/127670354

​小川氏の娘である彼女が最後に語った言葉は、なんとも悲痛な叫びだった。

雪辱を果たした大勝利の場で、ようやく聴いてられる程に、酷く切実なものだった。

あの、社会に対する絶望が、次世代を担うべき政治家の娘から出てくることは、必然でありつつ、この歴史的な一幕で簡単に溜飲を下げられるようなものではなかった。


彼のような人物が政治家であればきっと国はよくなるに違いない。

でも彼は政治家には向いていない。

彼の父親が発したこれらの言葉は、目新しい言い回しでなくとも、印象的にならざるを得ない。

自分の力が、社会に対して存分に発揮できる、互いにwin-winなポジションを見つけることに奮闘する日々において、もし、自分が本当に求められている場所が、自分の”向いていない”場所であったら、

周囲が望む未来に、健やかな自分が立っていないとしたら、そんな自己犠牲の精神など今日日、まっぴらごめんだと啖呵を切ったところで、それを解決する手立ては見つからないだろう。

確かなことがあるとすれば、人間というものの素晴らしさと、人間というものの醜さに、まったく同じくらい、まなざしを向けることができるとすれば、それが今の、やるべき事なのではないかと思う。

あざます