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配信後記(第3回)「良いものを作れば、自然と人が集まってくる」は“信仰”なのか

それでも僕は「良さ」の力を信じている

今回の東京西側放送局の議題は、文章を何らかの形で日常的に書いている人なら、かなりの割合で考えたことのあるテーマだったと思う。

僕たちの話っぷりだと、まるで「良さとうまさは両立しない」と言っているようにも聞こえるが、それについては否定をしておきたい。世の中には「良くてうまい文章」というのもちゃんと存在するはずだし、その地点に辿り着けるよう試行錯誤を繰り返すことが、創作を志す人間として最低限持つべき矜持でもあるだろう。

そういう前提に立った上で、あえて言うが僕は「うまい文章」が好きだ。これは「いい文章」に対するコンプレックスの裏返しでもある。配信で語った通り「いい文章=熱量の高い文章」だと仮に定義すると、僕は文章を書くことにあまり熱量を込められない人間なのである。

書きたいことがあり、それをいかにして読者にロスなく伝えるかが勝負だと思っている節がある。その目的を達するために情熱は必ずしもなければならないものではない。むしろ肩入れしすぎて暑苦しくなり、逆効果になることさえあると思う。

誠実に、冷静に、伝えるべきことを伝えることの難しさは、インターネットを少し検索するだけでもよく分かってもらえるだろう。言葉足らずならまだしも、我田引水・牽強付会に自身のサービスの優位性を語る記事の多さといったらない。もっともらしい顔をしてリテラシーの低い読者を罠にかけるような記事を、僕は憎んでさえいる。そういう不誠実な記事で生み出された数百万のPVは、そのまま、その記事によって不利益を被った人数のバロメーターでもある。誇れるようなものではない。

PV至上主義は未だにこのインターネットにはびこっている。いかに多くの人々の耳目を集められるかを競い、多いと言っては笑い、少ないと言っては泣く。そのPVの先に何があるかを想像もせずに、「100万PVすごいですね!」と言い合っている。たしかに100万PVはすごい。生半可なことではたどり着けないPVだ。Googleが言うように「ただ良いコンテンツを作り続けるだけ」では到達し得ない領域だ。んなこたあとっくに分かってる。

そうは言っても、やっぱり僕は「良いものを作れば、自然と人が集まってくる」という信仰を捨てきれないでいる(かといって「人が集まっているものは良いものだ」と必ずしも言えない)。

そんなことを考えるとき、だいたい僕の脳内にはこの曲がかかっている。

どんなにこちらが思いを込めようが、伝わるか伝わらないかは相手次第。真剣に作ったものならば、それを手前で良いの悪いのと言うのは野暮ってもんなんだ。いつか誰かが拾い上げてくれたなら重畳。その日が来ようと来るまいと、常に世界に誠実に作り続けることだけが僕にできることなのだ。

という気持ちにさせてくれる。
それでいて、熱量はこもらない。
困ったもんだナア。

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大丘柳人
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